「高らかに賛美!」
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ルカによる福音書2章1~20節
クリスマス、おめでとうございます。今年もこうしてみなさんと一緒に、降誕日の喜びを分かち合うことができますこと、本当にうれしく思います。昨日のイブ礼拝もたくさんの方々と守ることができ、感謝です。
この降誕日礼拝では、ヨハネによる福音書とルカによる福音書のどちらかを選ぶことになっていますが、今日はルカ福音書をお読みしました。聖書には「イエスの誕生」、そして「羊飼いと天使」という小見出しがつけられています。
前半部分はマリアとヨセフがナザレからベツレヘムへ行った経緯、そしてベツレヘムには彼らの泊まる場所がなかったこと、さらに生まれた赤ちゃんはふかふかのベッドではなく、家畜小屋の飼い葉おけに布にくるまれて寝かされた、ということが書かれています。
幼稚園でおこなわれる聖劇では、後ろからマリアとヨセフが登場し、前にやって来る。そして「トントントン、こんばんは」、と挨拶をして、「今晩泊めてください」とお願いするわけです。
しかし「あいにくですが、もう一杯でお泊めすることはできません」と断られていく。それが繰り返されていくわけですが、ようやく三件目の宿屋になって、「馬小屋だったらどうぞ」と招き入れてくれます。
どうして三件目なのか、そんなこと聖書には何も書いていないのに、とも思います。考えてみますと、博士も三人出てきますが、これまた聖書には何にも書いてありません。黄金、乳香、没薬と三つのささげ物なので、三人と考えたのでしょうか。
ともかくイエス様の誕生の場面を振り返ってみますと、とてもではないが救い主の誕生には似つかわしくない環境でお生まれになったことがわかります。本来であれば神殿やお城や大きな屋敷で、たくさんの人にみ守られ、暖かい中で誕生してもおかしくないのです。
しかしイエス様が生まれた場所は、普通は人が泊まるような場所ではなく、飼い葉おけは赤ちゃんが寝かされるようなものでもなく、たった二人だけ、マリアとヨセフだけで赤ちゃんの誕生を見守る、そのような環境でした。
でもそこには、神さまの思いが隠されていました。イエス様は何のために来たのか、ということです。立派で豪華な場所に行けるのは、限られた人たちだけです。でも神さまは、そのような所を、イエス様の誕生の場所に選ぶことはされませんでした。
その同じころ、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの番をしていたそうです。羊飼いは貧しく、住むところもなくて様々な場所を転々と移動しながら生活していました。当時ユダヤでは、律法という掟が大切にされていました。そして律法を破る人は罪人だと定められていました。
律法には様々な決まりがありました。たとえばこういうものがあります。「動物の血に触れたら汚れる」。日常的に羊と暮らす羊飼いは、けがをした羊を介抱する必要がありました。当然そのときには、血に触れてしまいます。
また週の一日を安息日と定め、その日にはすべての労働から離れなさいという決まりがあります。それはもともと、奴隷や家畜を休ませるためのもの、つまり愛に満ちた決まりだったのですが、人々はそれを、「禁止」の決まり、~してはいけないという部分を強調していきました。
羊と共に生きる彼らが、週の一日、休めるはずもありません。羊は草を食べないといけないし、水を飲まないといけない。羊飼いはそこに連れて行かないといけません。でもそれは「労働」だ、だから決まりを破っている、あなたたちは罪人だ、となっていたのです。
羊飼い自身、その自覚もあっただろうと思います。共同体から排除され、明日への希望も見いだせないまま、毎日を生きていく。神さまはもう自分たちから離れてしまった。自分たちはもう神さまから見捨てられたのだと思っていた彼ら羊飼いたち。しかしそこに、神さまのみ手が伸ばされたのです。
突然彼らの前に、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしました。羊飼いたちはそれを見て、非常に恐れたといいます。それもそのはずです。自分たちには関わりがないと思っていた神さまの思いが、主の天使を通して語られたからです。
主の天使は、「恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と語ります。「民全体」なのです。一部の人ではない。決まった民族でもない。掟を守ることができる人たちだけでもない。すべての人が、喜びの対象なのです。
神さまがすべての人を愛し、すべての人を救いに導こうとされるその思いを、貧しく、希望を見失っていた羊飼いたちに伝えられました。誰よりもまず、苦しみと暗闇の中にいる彼らに喜びの知らせを伝えたい。それが神さまの思いだったのです。
天使は賛美します。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。その賛美の声は羊飼いたちの心に本当の光を注ぎ込み、彼らを喜びと希望で包み込んでいったのです。
そこで物語は終わりません。彼らはその出来事を見に、ベツレヘムの家畜小屋に向かいました。そしてそこにいた人々、マリアとヨセフ、また宿屋の人たちもいたかもしれません、その人々に天使が話してくれたことを伝えました。
ここでも物語は終わりません。まだ続きがあります。最後の20節に、こう書かれています。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」。
彼らは主の天使の言葉を聞き、その賛美を受け止めました。そして今、自分たちも神さまをあがめ、賛美する者へと変えられていきました。羊飼いがこれから出会うすべての人たちはその賛美の声を聞き、喜びの知らせを受け取っていったことでしょう。
わたしが10代の頃、当時通っていた教会ではイブの夜にキャロリングをしていました。この教会も昔、やっていたと聞いたことがあります。駅やお店の前など、10代の多感な時期ですから人の目も気にしながら、教会の人たちと声を合わせたことを思い出します。
そのときに牧師さんに言われたことがあります。「歌を聞かせなくてもいい」って。例えば路上ライブのように、その歌声に聞きほれさせる、そういう目的もあるでしょう。でもキャロリングでは、道行く人たちがふと笑顔になったり、一緒に口ずさんでくれたり、それだけでいいんだよと言ってくれました。
羊飼いたちの賛美の声は、それはもうバラバラだったでしょう。普段から練習しているわけではないので、口々に神さまに対する賛美を歌っていたことだと思います。でもその中で、周りの仲間と顔を見合わせながら、笑顔で呼吸を合わせて、共に賛美していった。だからそこには、素晴らしいハーモニーが生まれたのではないかと思います。
神さまはすべての人たちに喜びの知らせを伝えられました。そこには、いろんな人たちがいます。年齢も、性別も、国籍も、育った環境も、職業も、いろんなことが違う、そんな一人一人にイエス様が来られます。
その中に、わたしたち一人一人もいるのです。わたしたちがどんな人間であろうとも、どんな過去を持ち、どんな生き方をしていようとも、わたしたちを愛しておられる神さまは必ず、イエス様をお遣わしになるのです。
その喜びを受け取ったわたしたちは、羊飼いたちがそうしたように、賛美の声を周りの人たちに届けていきたい。「神さまはわたしたちを愛しておられる」、「わたしたちのためにイエス様を与えてくださった」、その喜びの知らせを、わたしたちが伝えることができれば、どんなにすばらしいことでしょうか。
わたしたちにはそれぞれ、与えられた場所があります。その場所で神さまのご用のために、歩んでまいりましょう。イエス様を心に受け入れ、祈り、これからも賛美していくことができますようにと願います。
そしてこのクリスマスの喜びがすべての人に伝えられ、神さまの愛によってわたしたちに平安が与えられますように、お祈りを続けていきましょう。
クリスマス、おめでとうございます。