「すべてをご存じ」
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マタイによる福音書10章24~33節
人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
今日の福音書にあるこのイエス様の言葉を聞いたときに、自分がクリスチャンであることを恥ずかしがらずにみんなの前で言いなさい、信仰を持っていることを伝えなさいというメッセージに聞こえてしまうかもしれません。
福音書が書かれたのは、イエス様が十字架につけられてから、かなり経った後でした。今日読まれたマタイによる福音書は、十字架から50年以上経って編集されたと考えられています。イエス様の出来事や言葉は、様々な伝承として伝えられていました。それをイエス様に直接会っていない人たちに伝えていくために、福音書はまとめられていったと言われます。たとえばマタイによる福音書は、ざっくり言うとユダヤ教からキリスト教に変わった人たちに対して書かれているそうです。
当時のキリスト教はまだローマ帝国で認められていませんでしたので、大変な迫害を受けていました。ユダヤ教の人たちからは異端視され、またローマからも危険な思想を持つ集団として危険視されていたのです。たとえば回心をする前のパウロはユダヤ教のファリサイ派として、キリスト教の人たちを迫害していました。またローマによってキリスト者が残酷な殺され方をしている描写も、歴史書や映画などで見られます。
ですから今日の福音書のイエス様の言葉は第一に、その迫害されている、苦難の真っただ中にいる人たちに向けられているということなのです。そのことを頭においてもう一度福音書のイエス様の言葉に聞くと、強調点が変わってくるように思います。すなわち、とにかく恐れずに言い広めなさい、迫害など恐れるな、死を怖がらずにわたしのことを言うんだよというように殉教を勧めているのではなく、「だから恐れるな」という安心を与える、そのことが今日のメッセージの中心なのだろうと思います。
1966年に出版された沈黙という小説があります。遠藤周作が書いたこの小説は、1971年、そして2016年に映画化されているので、ご存じの方も多いと思います。舞台は江戸時代初期、禁教令が出されてキリシタン弾圧がおこなわれていた時代でした。その物語は、フェレイラ、ロドリコ、ガルペといったポルトガルの宣教師たちや、キチジローという裏切りと懺悔を繰り返す日本人などの心の動きや信仰への思い、葛藤などが描かれたものです。
実はこの作品、出版された当初、カトリック教会によって強い批判にさらされていたそうです。特に長崎では、禁書扱いにもされたようです。その原因は何かというと、「踏み絵」という行為にありました。踏み絵というのはその人がキリシタンかどうかを調べるために、イエス様が描かれた板を踏ませるものです。信仰深い人であれば、踏み絵をするのに躊躇する。イエス様の絵に足を置くのをためらうのです。そうなると、その人はキリシタンだから捕らえて牢に入れる。そのような摘発のために、この踏み絵はおこなわれていました。
ところがこの沈黙の作中で、多くの人が踏み絵を踏んでしまうんですね。キチジローや村人だったらともかく、フェレイラやロドリコといった宣教師、いわゆる司祭に当たる人たちが踏み絵を踏んで、棄教したのだと書かれているのです。カトリック教会はそれに対して、猛反発しました。司祭がそのようなことをするはずはないと。今日の福音書にあるように、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」という決まりを司祭たちは守っているはずだ。たとえ死が間近に迫ろうとも、そこで踏み絵を踏むはずはないと言うわけです。
その考え方は、よく分かります。信仰を持った以上、それを貫いていく。特に神さまにすべてをささげた司祭は、人々の見本となるように強い信仰に立つべきだ。その思いはよく分かるわけです。しかし沈黙を読んだことのある方は、思い出してください。この二人の司祭は自分の身を守るために、踏み絵を踏んだわけではなかったのです。自分が踏み絵を踏むことで、助かる命があった。今、苦しんでいる人をそこから救うために、彼らはその踏み絵を踏んで、棄教したのです。
沈黙の中で、心に残るシーンがあります。宣教師ロドリコが踏み絵に足を掛け、その足に痛みを感じる中で、彼はイエス様が自分にこう語り掛けるのを聞きます。
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」
わたしたちは今、迫害の時代に生きているわけではありません。比較的自由に自分の意見を言うことができるし、SNSで自分の考えを表明することも、ある意味簡単にできてしまう時代です。しかしその自由さのゆえに、わたしたちは毎日のように妥協という名の踏み絵を踏み続けています。本当に大切なことを伝えることもせずに、神さまではなく自分を第一に考え、歩んでしまう自分に気づかされることも多くあります。
神さまの福音をとにかく言い広めなさい、それが今日のメッセージだとしたら、わたしたちにはできていないことがたくさんあります。昔は道端で路傍伝道をしたり、伝道集会にとにかく人を集めてきたりということもありました。しかし教会は疲れてきた。だから今、このようなことはおこなわれなくなってきた。そういうことでしょうか。
わたしはそうではないと思うのです。先週の箇所でも教会の働きとは、信徒の数を増やして教勢を拡大することではなく、一人ひとりの命に寄り添うことだというお話をしました。それが本当の教会なのだと。
今日の福音書にあるイエス様の言葉、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな」というその言葉は、神さまがわたしたちを愛してやまない、そのことが語られています。踏み絵を踏んだ人を非難し排除するのではなく、自らも踏み絵を踏んでその人たちと共に生きる。その根底には、神さまの大いなる愛があります。絶対にあなたたちを見捨てないというその愛のゆえに、わたしたちを何としてでも救っていきたいというその思いのゆえに、わたしたちもまた隣の人を大切にする一人ひとりでありたいと思うのです。
たとえうまくいかなかったとしても、怖い目に遭いそうになっても、大丈夫。わたしがいつもそばにいるから。そのイエス様の言葉を胸に、教会として何ができるのか、どう歩んでいくべきか、祈り求めてまいりましょう。
イエス様はいつもわたしたちと共におられます。




