「なぜ疑ったのか」
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マタイによる福音書14章22~33節
今日はまず、旧約聖書のみ言葉に聞いていきたいと思います。今日の箇所はヨナ書2章2節からですが、このような言葉から始まっています。「ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った」。魚のお腹の中から、今日の箇所はスタートしているのです。一体どうしてヨナは魚の腹の中に入ることになったのか。この物語を簡単にお話ししたいと思います。
あるとき神さまは預言者であるヨナに、ニネベという都に行き、人々に悔い改めを告げるように命じます。このニネベには悪が渦巻いており、神さまはヨナに「悔い改めよ」と伝えさせようとしたのです。ところがヨナは神さまの命令に従わず、タルシシュという場所に逃げ出そうとします。そこに向かう船に乗って、神さまから逃れようというのです。しかしその途中、船は激しい嵐に襲われ、その原因がヨナだと分かると、彼は海へ投げ込まれます。すると大きな魚がヨナをのみ込み、ヨナはその魚のお腹の中で三日三晩を過ごすのですね。ヨナは魚のお腹の中から神さまに祈るのですが、その祈っている様子が今日の箇所に書かれている内容になります。
さて、その続きです。やがてその大きな魚は、神さまが命じられた通りにヨナを陸地に吐き出します。そこでヨナは改めてニネベへ向かいます。するとヨナの警告を聞いたニネベの王と民は断食して悔い改め、神さまは災いを下すのを思いとどまります。しかしヨナは、とんでもない悪をおこなってきたニネベが赦されたことに怒ります。すると神さまはとうごまの木を用いてヨナを諭し、ニネベのような都の人の命さえ惜しむ、ご自身の憐れみを示します。そのような物語です。
このお話は、いろんなポイントを強調して語ることができます。たとえば最後の場面、ニネベのような悪の限りを尽くす人々でさえも、神さまは悔い改めるのを待っている。そういう視点です。しかし今日、みなさんと分かち合いたいのはヨナと神さまとの関係です。預言者ヨナは神さまの命令に背き、ニネベに悔い改めを勧めることをしませんでした。それどころか船に乗り、タルシシュというニネベから遠く離れた場所に逃げようとしました。
ところが神さまは、ヨナに関わり続けるのです。海に投げ込まれたヨナを大きな魚に飲み込ませ、悔い改めるチャンスを与えたのです。ヨナは三日三晩大きな魚の腹の中にいて、自分に与えられた任務を思い返し、神さまにようやくお祈りすることができました。その時間を神さまは与えられたのです。ニネベに行き、悔い改めを伝え、そのニネベの人たちが回心したのを見て、ヨナは面白くありませんでした。あんなに悪の限りを尽くしていた彼らが赦されるなんて、それがヨナの思いだったのでしょう。しかし神さまはとうごまの木をヨナに与え、それを翌朝枯らすことでご自分の思いを伝えます。その思いとは、「すべての命は大切なもの」、それに尽きるのです。ヨナに対してその思いを、じっくりと伝えられた。神さまは片時もヨナを離れず、ずっと見守り、支えていきならが、ヨナに関わり続けたのです。
さて今日の福音書には、嵐を静めるイエス様の姿が描かれています。この「嵐を静める」物語には、2パターンあります。一つ目はマタイによる福音書であれば8章23~27節に書かれているものです。今日の箇所よりも前にあった物語です。
今日の箇所は、そことはちょっと違います。大きな違いは、舟に乗ったのは弟子たちだけで、イエス様は山で祈っていたというところです。舟が嵐にあったとき、弟子たちは叫び声をあげました。そこは以前と一緒です。でも決定的な違いは、前はイエス様は眠っていたとしても舟の中にいた。けれども今回は、おられないのです。この礼拝堂は、舟をイメージしているとよく言われます。大きな箱舟に、わたしたちは集っているのです。ここに来ているときは、神さまを感じるでしょう。お祈りの中で、神さまが共にいてくださることを知り、心が安らかになる。そういうことはあると思います。では礼拝に来ることができなくなったら、どうなるのでしょうか。この教会は、お世辞にもバリアフリーとは言えません。また物理的な障壁だけではなく、心が教会から離れてしまうということもあります。でも、神さまの愛は、イエス様の恵みは、わたしたちを追いかけてくるのです。湖で悩まされている弟子たちのところに、イエス様は湖の上を歩きながら近づいて来られました。思わず弟子が「幽霊だ」と叫んでしまうほど、それは不思議な光景だったことでしょう。
このときにイエス様が語られた言葉、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」、この言葉がわたしたちにもいつも語られている、そのことを心に留めたいと思うのです。たとえ目に見える形でイエス様を、神さまを感じることができなかったとしても、いつもわたしたちの叫びに耳を傾けてくださる。平安を与えてくださるのです。ヨナもそうでした。彼は神さまから逃げようとしました。でも、追いかけてくるのです。裁くためではありません。ニネベの人が救われるためには、あなたの力が必要なのだ。もう一度、わたしに向き直りなさい。わたしたちは、そのような神さまの愛に包まれているということに、心から感謝したと思います。
さて今日の福音書には、その愛に包まれていることを感じ、さらなる高みを目指した人物が登場します。ペトロです。彼はイエス様が湖の上を歩くのを見て、自分もイエス様の元に歩いていきたいと願いました。わたしたちもそうです。わたしたちもイエス様に倣い、いろんなことをしたいと思う。自分には何ができるのか、恐る恐る歩くことも、勢いよく駆け出すこともあります。イエス様をしっかり見据え、進んでいるときは順調です。でもわたしたちは、世の中の様々なことに目が行くのです。誘惑もあるでしょう。他人の言葉に心惑わされるときもあると思います。ペトロは湖の上を歩きだしました。しかし強い風に気が付いてしまったのです。「イエス様のところまで行くぞ!」と歩き出したときは平気でした。でも周りの状況に目が行ったときに、怖くなってしまったのです。そうして、ペトロは沈みかけました。イエス様はそのときに、「なぜ疑ったのか」と言われます。もしここでペトロがそのまま沈んでしまったら、わたしたちはそのように、一歩を踏み出すことに恐れを抱いてしまいます。
でもこのとき、イエス様は手を伸ばしてペトロを捕まえたのです。そのときのイエス様の表情はどうだったのでしょうか。きっとニヤニヤしていたのだと思います。「しょうがないやつだ」と笑いながら、その手をグッとつかむ。その姿こそ、イエス様がわたしたちに向けて示したい姿なのです。何度疑っても、何度足がすくんでも、何度逃げだしても、何度恐れても、何度でも手を握り、引き上げてくださるイエス様がいるから、わたしたちは今日も、そして明日も歩むことができるのではないでしょうか。
「恐れることはない」と言われたイエス様の言葉を心に留め、また歩んでまいりましょう。









