「心燃える」
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ルカによる福音書24章13~35節
今日、復活節第三主日に読まれた福音書は、「ちょうどこの日」という書き出しで始まっています。先週読まれたのは、ヨハネによる福音書でした。そこで読まれたのは二つの物語、いずれも家の中に閉じこもっていた弟子たちの真ん中にイエス様が立たれるというものでした。
一つ目は復活日の夕方のこと、そしてもう一つはその八日後、次の週の話でした。最初にイエス様はイスカリオテのユダとトマスを除いた10人の弟子たちの前に立ちます。そして次の週には、トマスを含めた11人の前に立ちます。
ただ今日読まれたのは、ルカによる福音書でした。ルカ24章を見てみると、その直前がいわゆる「空の墓」の物語になっています。つまり今日の福音書はちょっと時間を戻して、復活日の夕方の話になっているということです。
ここで登場するのは、二人の弟子たちです。一人はクレオパ、そしてもう一人は名前すら書かれていません。クレオパ、弟子の中にそんな人いたっけ?、と思う方もあるでしょう。実際12弟子の名前のリストにも載っておらず、他の記録にも残っておりません。
この二人、クレオパと名もなきもう一人は、エマオという村に向かって歩き出します。エマオはエルサレムから60スタディオン、大体11kmくらいの所にあるそうです。11kmですから、歩くと2時間半から3時間というところでしょうか。このクレオパたちの心は、まだ暗闇の中にあったようです。それもそのはず、この時点ではまだ、復活のイエス様と会うことができていなかった。女性たちや弟子たちはまだ、イエス様の遺体がなくなった空のお墓しか目撃していなかったのです。
彼らは暗い顔をしたまま、歩いていました。交わす会話も、沈んだ内容でした。イエス様が十字架につけられ、息を引き取られ、墓に葬られた。そしてその遺体が、どこかに行ってしまった。その事実だけが、彼らの心に重くのしかかっていたのです。
彼らが歩むエマオへの道のりは、暗く、重たいものでした。足取りもなかなか前に進まない、そんな中で一人の人が二人に近づいてきて、一緒に歩き出しました。それはイエス様だったのですが、不思議なことに、クレオパたちにはそれがイエス様だとは分からなかったそうです。彼らの目は、遮られていたからです。
これって、どう考えたらいいのだろうかと思われるかもしれません。いくら目が遮られていたとはいえ、ずっと一緒にいたイエス様のことが分からなくなることなんてあるのだろうか、正直そのように思うわけです。ただ聖書は伝えるのです。クレオパたちの目が遮られていたと。
遮られていた、というわけですから、誰かが遮っていたのです。誰がそのようなことをしたのか。それは、神さまです。神さまが彼らの目を遮り、その結果その人がイエス様だとは気づかせなかったということです。
有名な讃美歌の一つに、「アメージンググレイス」という歌があります。美しいメロディーが心に残る、そのような歌です。その歌詩は、ジョン・ニュートンという牧師によって書かれました。
驚くべき恵み なんと甘美な響きよ
わたしのように悲惨な者を救って下さった
かつては迷ったが、今は見つけられ、
かつては盲目であったが、今は見える
直訳にすると、このような歌詞になります。
「かつては盲目であったが、今は見える」、目が遮られて見えなかったものが、見えるようになったのだと彼は書きます。ニュートンはかつて、奴隷貿易に携わっていました。劣悪な環境の奴隷船に黒人を押し込め、感染症や脱水症状、栄養失調などで多くの命を奪っていきました。
そのような中、ある日彼の乗った船を嵐が襲います。今にも沈みそうな船の上で、ニュートンは初めて心から祈った、それが彼の転機となりました。神さまが彼の心の目を開かせ、そして彼は「見える者」として歩むようにされたのです。
クレオパたちはエマオに向かう途上、誰だかよくわからないその人物と語り合っていきました。そのときの様子を彼らは後で、「わたしたちの心は燃えていたではないか」と振り返ります。み言葉を聞いて、彼らの心は燃えたのです。
そして彼らの目が開けたのは、先に行こうとするイエス様を引き留め、一緒に食事の席につき、イエス様がパンを取り、賛美の祈りを唱え、そのパンを裂いてお渡しになったときでした。パンが裂かれた、これはまさしく「聖餐式」のことです。
聖餐式の中でわたしたちは、み言葉に耳を傾けます。聖書を通して神さまが与えてくださった約束、希望に心躍らせ、燃やされる中で、パンが裂かれるのです。感謝聖別の中で司祭は、「主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝してこれを裂き」と唱えながら、パンを少しだけ裂きます。
そして主の祈りのあと、「わたしたちがパンを裂くとき」と唱えながら、司祭はパンを二つに分ける。それはわたしたちがキリストの体のそれぞれの部分であり、そしてキリストにあって一つであることを示しています。
そのことを、パンが裂かれるたびに思い出す。弟子たちの目が開かれたように、わたしたちの心も開かれ、復活のイエス様と出会い、歩んでいけますように。聖餐式の中でみ言葉と聖餐によって、わたしたちが養われていることをいつも思い起こしていきましょう。
さて、今日の最初の方で、クレオパって誰か分かっていないと言いました。実はエマオという場所も、どこなのかよくわっていないのです。いろんな説がありますが、どれもはっきりしていません。
でもこれって逆に考えると、よく知られている人物や場所を指していないということが、実はとても大きなことだと思うのです。マグダラのマリアにイエス様が現れた話を聞いても、それはそこまで深い関係だったからだと思ってしまう。弟子たちや、トマスだってそうです。彼らの復活物語は、彼らだから起こったもの。あくまでも彼らのものなのです。
しかし今日の物語は、クレオパという無名の人物に対して、そしてエマオという人々に知られていない場所で起こったものです。それはつまり、復活のイエス様は、どのような人に対しても手を差し伸べてくださるという、そのメッセージなのです。
わたしたちの心は、燃えているでしょうか。み言葉を聞き、そしてパンが裂かれるときに、わたしたちの目が開かれ、そしてイエス様がいつもそばにいてくださることを感じることができますように、お祈りをしていきたいと思います。




