2025年4月26日<復活節第4主日>説教

「あなたはどんな羊ですか?」

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 ヨハネによる福音書10章1~10節

 昨日、この教会の長年の信徒であり、教会と幼稚園、そして地域社会においても、多方面にわたって大きな役割を果たしてこられた方のご葬儀がありました。彼が歩んでこられた豊かな人生と、周囲の人々に与えてこられた恵みの大きさを、あらためて思わされるひとときでした。そして本日はこの礼拝の後に、天に召されて6年となる方、これまた奈良基督教会にご自身の人生を捧げ尽くしてこられたと言っても過言ではない方を覚えて、逝去者記念の礼拝がささげられます。

 

 これらお二人のような立派な方の歩みに触れると、私たちはつい「自分は小さい、何もできない」と思ってしまいます。けれども、そのように思う必要はありません。先日、ある葬送式のメッセージの中で、牧師がヘルマン・ホイヴェルス神父の詩「最上の業」を紹介しました。そこには、たとえ何もできなくなったとしても、神さまは私たちに、“最上の業”を残してくださっている。それは、「祈る」ということなのだ――。このことを、私たちは心に深く留めておきたいと思います。

 今朝読まれた使徒言行録には、今から二千年前の教会のはじまりの様子が描かれています。教会に人が増え、働きが増える中で、使徒たちは祈りとみ言葉に専念し、他の働きを人々に委ねました。それは、教会の中心を守るためでした。それぞれが与えられた賜物に応じて仕える――それが教会の姿なのです。ある弟子は祈りと御言葉に仕え、ある弟子は食卓の世話という具体的な働きを担いました。どちらも神の宣教を支える、等しく聖なる奉仕です。同じように、私たちの中にもさまざまな人がいます。長い年月を信仰の中で歩んでこられた方、体の不自由さを覚えながら礼拝に集っておられる方、初めて教会に来られた方もおられるかもしれません。

 できることは、それぞれ違います。けれども――だからこそ良いのです。たとえば、前に立って何かをすることができなくても、声を出して奉仕することが難しくても、祈ることができる。誰かのために祈ることができる。それは、決して小さなことではありません。神さまの前では、「最上の業」と呼ばれるほどに尊いものです。今月から始めた、月一回の教会だよりには、その月の誕生と逝去を記念する方々のお名前が載せられています。私たちの主にある家族である、そのひとり一人のために祈ることは本当に大きな奉仕なのです。そして一方で、与えられた力や機会の中で、誰かに声をかけること、教会のために手を動かすこと、小さな気配りをすること――それらもまた、神さまが与えてくださった賜物の現れです。

 イエス様は、ご自分の弟子として、大勢の中から優れた人を選ぶなんてことは決してなさいませんでした。弟子として選ばれたのは、読み書きすらもできなかったであろう漁師たちだったり、嫌われ者の徴税人だったり、裏切り者だったり、疑り深い人だったり、イエスさまが捕えられたとたんに逃げかくれてしまった臆病者だったり。私たちと何ら変わりない、普通の人間、そんな彼らを弟子としてお選びになったのです。そして、復活後、彼らに言われました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。(マタイによる福音書28章20節)すべての民をわたしの弟子にしなさいとおっしゃったのです。

 今ここにいる私たち一人ひとりがイエス様の弟子なのです。牧師、聖職だけがイエスの弟子であり、宣教はかれらの仕事だと思われがちです。でもそうではありません。イエス様について行く私たちはみんな、一人残らずイエスの弟子なのです。その自覚をぜひ今日新たにしていただきたいと思います。

 今日読まれたヨハネによる福音書で、イエス様は言われます。羊飼いは、羊を一匹ずつ名前で呼んで導く、と。群れとしてまとめて扱うのではなく、一匹一匹を、名前で呼ぶのです。それはつまり、「あなたにしかできないこと」がある、ということでもあります。誰かの代わりではない、あなたとして呼ばれている。その呼びかけに応えて、祈る者として、また与えられた賜物をもって仕える者として、それぞれの場所で歩んでいく――それが、教会の姿であり、弟子の姿なのです。

 しかも、イエス様は、今日の箇所の最後でこう言われます。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と。私たちは「役に立つかどうか」で価値が決まるのではありません。まず命を与えられている存在なのです。そのことを知ったときに主のために何かしたいという思いが私たちのうちにあふれてくるのでないでしょうか。

 昨日ご葬儀をおささげした方も、そして本日覚える、天に召されて6年となる方も、決して「最初から特別な人」だったわけではありません。けれども、それぞれに与えられた賜物をもって、祈りつつ、仕えつつ、その歩みを重ねてこられました。あるときには前に立ち、あるときには支える側に回り、またあるときには、ただ祈ることしかできない時もあったでしょう。しかしそのすべてを、主はご存じであり、受け止めていてくださったのです。

 主は羊を一匹ずつ、名前で呼んで導かれます。その中には、あの方々の名前も確かにありました。そして今、同じように、私たち一人ひとりの名前も呼ばれています。だから私たちは、自分を小さく見る必要はありません。他の誰かと比べる必要もありません。祈ることができる。与えられた賜物をもって、誰かのために、教会のために何か小さなことができる。その一つひとつが、神さまの働きの中に用いられていきます。あの方々がそうであったように、私たちもまた、主に呼ばれた者として、それぞれの場所で、その歩みを重ねていきたいのです。

 みなさんは、どんな羊として呼ばれているでしょうか。祈る者としてでしょうか。誰かを支える者としてでしょうか。それとも、今はただ導かれる羊としてでしょうか。主は、そのどれもを大切にしてくださいます。今日もまた、名前を呼ばれている者として、その声に聞き従いながら歩んでまいりましょう。