「道、真理、命」
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ヨハネによる福音書10章1~10節
イエス様はヨハネ13章において、弟子たちの足を洗われました。そして何をされたのか。逮捕されるのは翌日のことです。もうご自分には地上での時間がないことを、イエス様はよく知っておられたのでしょう。そこで弟子たちに、たくさんの言葉を語られたのです。
今日のトマスが言った言葉、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」との問いは、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」というイエス様の言葉に対してのものでした。彼らは不安と恐ろしさの中にいました。イエス様がどこに行ってしまうのか、そのことが彼らの心を暗くしていたのです。頼りにしていた存在がいなくなってしまう。いつも一緒にいたのにどこかに行ってしまう。その恐れの中にいた弟子たちに、イエス様は語ります。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。
さて今日の福音書ですが、今月読まれるのはこれで5度目になります。今月、3人の信仰の先輩が天に召されました。その葬送式で、この聖書箇所がそれぞれ読まれました。また先週の日曜日には、教会で逝去者記念礼拝がおこなわれました。そのときにも、この福音書が用いられています。そして今日、復活節第5主日の福音書として選ばれています。これが5回目の朗読というわけです。葬送式、そして逝去者記念礼拝、わたしたちはどのような気持ちで、その場に集っているでしょうか。悲しみの中、不安と恐れの中、そして何か言葉を聞きたい。安心できる何かが欲しい、そのような思いがあるのではないでしょうか。
今日の場面では、弟子の一人であるトマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と尋ねます。また少し前、13章36節ではペトロも、「主よ、どこへ行かれるのですか」と尋ねています。その問いは、今日、そして葬送式や記念式に集められたわたしたちの言葉でもあります。イエス様、このままここにいてください。そしてわたしたちを守ってくださいと。しかしそのわたしたちに対しても、イエス様は言われるのです。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。
さて、ではイエス様は、一体どこに行かれるのでしょうか。ここで聖書には載せられていない、ある物語を紹介したいと思います。聖書には収められなかった「ペトロ行伝」という書物があります。行伝というのは昔、使徒言行録が使徒行伝と呼ばれていた、その同じ行伝です。ペトロの働きを記したものです。
そこには、このような物語があります。イエス様が天に召されたのち、ペトロはエルサレムにいて、初代教会を率いていました。ところがペトロがローマに宣教に行っているときに、皇帝ネロがキリスト者を迫害してきます。彼はキリスト者を、当時ローマで起こった大火災の犯人に仕立て上げ、次々と殺害していきます。そのことに恐れをなしたペトロは、ローマから逃げようとするのです。ペトロはアッピア街道という道を行きます。するとイエス様が反対側から歩いてくるのです。ペトロが「主よ、どこへいかれるのですか?」、ラテン語で「ドミネ クォ ヴァディス?」と問うと、イエス様は「あなたがわたしの民を見捨てるのなら、わたしはもう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えたそうです。
伝承によるとそのイエス様の言葉を聞いて、ペトロはもう一度ローマに戻る決心をします。そして自ら巡教の道を選び、十字架に、それもイエス様と同じ十字架なのは恐れ多いと思い、逆さ十字、頭が下の状態で十字架につけられたということです。
その十字架のつけられ方はさておき、イエス様の「わたしはもう一度十字架にかけられる」という言葉が心に響きます。実はイエス様は一貫しているんですね。自分は十字架につけられるために、この世に遣わされたのだと。
弟子たちとの最後の食事を終え、弟子たち一人ひとりの足を洗われたイエス様は、十字架に向かってその足を進めていきます。十字架を経て、イエス様はわたしたちのために場所を用意してくださいます。その場所がどういうところなのか、どうやって行けばいいのか。しかしなかなかわからないのも正直なところです。わたしが牧師になる決断をしたのは、それが理由でした。介護の職場で働いていく中で、人の死に関わってきました。宿直のたびに天に召される人を送り出し、そのご家族とお話をする機会を得ました。ずっと泣き続ける方、何の感情も表に出さない方、そもそもご家族が来ることのない、そのような人もいました。その中で印象に残っているのが、最初に看取った方でした。その方は神戸教区で婦人伝道師をされていた方でした。
その方が亡くなって、ご家族にお会いしました。またお葬式は施設の中で、キリスト教式でおこなわれました。ご家族は、当然悲しんでおられました。涙を流しておられました。でも何か違うんです。何か希望というか、光というか、そのようなものを感じることができました。その後に次々と、わたしが宿直に入る日にばかり、人が亡くなっていく。そのたびに、希望や光が見いだせない人たちの顔を見ていく中で、自分はどうしたらいいのだろうか。どの道を歩けばいいのか。祈り、求め、そして今こうして皆さんの前に立っているわけです。
イエス様は言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である」。その道を、真理を、命を、出来るだけ多くの人たちに伝えていきたい。その思いの中で、もがき続けています。
実は恥ずかしい話、先日ある方が逝去された連絡を聞き、一時間ほど、どうしていいのか右往左往し、頭の中がごちゃごちゃになり、自分の力だけで何とかしようとする自分の姿がありました、自分の道を自分で切り開こうとして、目の前が真っ暗になったのです。しかしふと、「あっ、そうだ、祈ろう」という気持ちが沸き上がってきました。そしてようやく祈ったときに、心は落ち着き、そしてすべてが備えられていきました。本当に牧師なのに、と恥ずかしい限りです。でもその道に、真理に、そして命に頼らなかったならばどうすることもできない自分を、そんな弱い自分をいつも知らされるから、なおさらそこに委ねることのできる喜びを一人でも多くの人に伝えたい、そう思うのです。
イエス様は場所を用意されます。わたしたちがその場所に招かれるために、イエス様は十字架へ向かわれたのです。
「主よ、どこへおいでになるのですか?」。それはわたしたちに命を与えるため、その道を備えるための十字架で。そしてわたしたちを生かすために、聖霊を与えてくださる。その日を心から喜び、お祝いしたいと思います。不安の中で語り続けるイエス様の姿を感じましょう。そしてそのぬくもりがたくさんの人たちに伝わっていくように、歩んでまいりましょう。




