「聖霊を感じよう」
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ヨハネによる福音書20章19~23節
今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。キリスト教の三大祝日の一つでありながら、イースターやクリスマスのようには大きなお祝いとならず、さらっと流れてしまうのはなぜでしょうか。聖霊降臨は、この世界に教会が誕生するきっかけとなった極めて大きな出来事です。「もっと大事にされてもいいのに、もったいないね」と、毎年のように家族で話しておりました。そこで今年は、私たち一人ひとりの心に残る礼拝にしようとポスターを作り、信徒のみなさんに3つのことを呼びかけることにいたしました。
まず一つ目は、「赤を意識しよう」というものです。聖霊降臨日の今日、赤い服や小物を身に着けて教会へ行きましょう、という呼びかけです。聖霊降臨日の祭色は、ご覧の通り赤です。赤は「聖霊の炎」を表します。弟子たちが集まって祈っていると、突然大きな風の音が聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに、それぞれの上にとどまったと聖書にあります。これこそがイエス様の約束されていた聖霊――神さまの力であり、私たちに対する神さまの思いです。イエス様が天に昇られ、意気消沈していた弟子たちは、この聖霊を受けて勇気百倍となり、世界中に福音を伝えていきました。教会の誕生です。
聖公会では、聖霊を普段あまり強調して語らないため、「それがどういうことなのか、正直分かりにくい」と感じる方もおられるかもしれません。でも今日は、少し素朴なやり方と思われるかもしれませんが、赤色を身に着けることで、「目には見えない聖霊を、私たちも確かに受けているのだ」と、しっかりと心に覚えたいと思います。
二つ目は、「息を意識しよう」というものです。なぜ息なのかというと、聖霊という言葉には、もともと「神さまの息」という意味が含まれているからです。今日の福音書にもあったように、復活のイエス様は弟子たちに「息を吹きかけて」言われました。「聖霊を受けなさい」と。また創世記でも、神さまは土で人を造り、その鼻に「命の息」を吹き入れられました。そうして人は初めて、生きる者となったのです。私たちはみな、神さまの息によって生かされています。その息を受けて生きる私たちが、この世界で一番にするべきこと。それは何でしょうか。神さまを賛美することです。「ありがとう、あなたは素晴らしい」と、心から叫ぶことです。賛美とは、神さまから息を吹き入れられた私たちが、今度は私たちの息を神様にお返しする「応答」なのです。今日の日に向けた聖歌アンケートの上位3曲を、礼拝後にみんなで歌います。どうぞ楽しみにしていてください。
そして三つ目は、「風を意識しよう」というものです。聖霊は、「息」と同時に「風」とも訳される言葉です。風と言えば、私たちの教会には、創立100年のときに設置された素晴らしいパイプオルガンがあります。このオルガンもまた、風によって響き、神様を賛美する器です。これからもこの音が人々を癒やし、私たちの信仰生活を支え続けられるよう、本日は「ペンテコステ献金」として、オルガンのための献金をおささげしたいと思います。
これら三つの呼びかけを心に留めながら、今日の礼拝をお捧げしているわけですが、先ほど「聖公会では聖霊をあまり強調しない」というお話をしました。これは教派の特色の違いです。キリスト教の教派によっては、個人の劇的な聖霊体験や癒やしを前面に出す教会もありますが、聖公会では、聖霊を「教会全体、礼拝全体の中に静かに働いておられるもの」として大切にしてきました。個人的にも、私たちが涙を流しながら祈るとき、空を見上げて感謝するとき、「イエス様だったらどうされるだろう」と考えるとき――その一つひとつの場面に、当たり前のように流れている空気のように、聖霊は寄り添ってくださっていると感じています。
先週の「ミニキリスト教講座」では、新しく来られた方を交えて自己紹介をいたしました。すると自然な流れの中で、お一人おひとりが「どのように神様に出会ったか」、その信仰の歩みを語ってくださいました。お話の中に「聖霊」という言葉はほとんど出てきません。けれども、語られる歩みの端々に、神さまの力が確かに働いて導いてくださったという事実が満ちており、全員でそれを分かち合うことができたのです。本当に温かい、満たされた時間でした。
私が尊敬するカトリックの晴佐久(はれさく)神父は、聖霊のことを「神さまの親心」と表現されます。たとえ遠く離れていても、親が我が子を思い続けるように、神さまは私たちから離れず、「大丈夫、共にいるよ」と寄り添ってくださる。必要な時に大切なことを思い出させ、助けてくれる。その愛の働きこそが聖霊なのだ、と言うのです。
この4月から大学生になった、私の長女の話をさせてください。彼女が私たちと共に奈良に来たのは6年前、中学1年生の4月のことでした。当時はコロナ禍で学校が突然休校になり、入学式があるかどうかも直前まで分からないような大変な時期でした。それ以上に彼女にとって大きな試練は、大好きな小学校の友人たちと別れ、誰も知り合いのいない、新しい公立中学校に入るということでした。教室では、同じ小学校から来た子たちがすぐにグループを作ってしまい、自分はどこにも入れないという「孤独」に直面したのです。私は彼女のために、陰で必死に祈りました。「なんとか友達ができますように。環境に早く馴染むことができますように」と。すると、入学式から数日経ったある日、彼女が晴れやかな顔で帰ってきて、「ママ、今日友達ができた!」と報告してくれたのです。私はただ嬉しく話の続きを聞きました。
一人ぽつんと座っている女の子が目に入り、「声をかけてみようか、どうしようか、でも勇気がないな……」と迷っていたその時、ふと、中学校の窓から外を見ると、すぐ隣にある教会の屋根の十字架が、ポンと目に入ったのだそうです。それまで全く気づかなかった十字架でした。長女はそれを見た瞬間、「うわっ、これはもう、やるしかない!」と感じ、不思議と迷いが消えて、ドキドキしながらもその子に声をかけることができました。それを聞いた途端、私の心には「ああ、聖霊が娘の心に働いてくださったんだ」という、この上ない喜びが湧き上がってきました。神様は愛する子どもをいつも見つめていてくださり、必要な瞬間に、聖霊を心に送り込んでくださるのだということに、改めて深く感動した出来事でした。
今日、私たちの頭上に炎の舌が見えることはないかもしれません。激しい風の音が響き渡ることもないでしょう。けれども、私たちが祈るとき、誰かに声をかけようと勇気を出するとき、「ありがとう」と空を見上げるとき――その静かな営みの中に、確かに、神さまの親心である聖霊がおられます。
今日この良き日に、神さまは今を生きる私たちにも、等しく聖霊を注いでくださっています。その聖霊の風に背中を押されて、私たちは今、神さまのために何ができるでしょうか。ワクワクしながら祈り、考え、それぞれの新しい一歩を共に踏み出してまいりましょう。




