2026年6月7日<聖霊降臨後第2主日>メッセージ

「誰と共に?」

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 マタイによる福音書9章9~13節

 今日の旧約聖書には、このような言葉がありました。ホセア書の言葉です。「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」

 わたしたちは信仰というと、自分をいけにえにして良いおこないをすること、と思うかもしれません。それも確かに必要なことです。しかし旧約の時代には、人々の前で目立つように何かをおこなうこと、そして人々の注目を集めることを良しとしていました。祈るときには、人が多く通る場所を選んで長々とお祈りをしたり、献金をするときには、金貨を投げ入れて神殿中に大きな音を鳴り響かせたり、断食をするときにはわざわざ苦しそうな顔をみんなに見せていたり。

 福音書の様々な箇所でイエス様は、そのような行為を否定されてきました。そして同時に今日の福音書には、イエス様がある人に声を掛け、そしてその後、食事の場面に招待された様子が描かれています。今日はその内容に触れる前に、先日わたしが経験したある出来事について分かち合いたいと思います。

 5月23日、先々週の土曜日、教区の海外情報部門の企画で、わたしは妻と共に京都聖ヨハネ教会に行きました。その日は聖霊降臨日の前日に当たり、プレペンテコステフェスティバルという礼拝がおこなわれました。その礼拝の中でメッセージをされた方のことをお話ししたいと思います。

 その方はその教会の信徒で、Yさんという方です。彼は京都民際日本語学校という施設を運営しておられ、そこでの活動の様子などをお話しくださいました。彼は主に「難民・避難民」と呼ばれる人たちの受け入れについて語られました。その学校のHPを見ると、このようなことが書かれています。

 京都民際日本語学校では、さまざまな背景を持つ人々が安心して学び、共に生きていける社会を目指しています。
その一環として、私たちは難民や避難民の方々への支援活動にも取り組んでいます。
日本での生活支援、日本語教育の提供、地域とのつながりづくりなどを通して、一人ひとりが新しい生活を前向きに歩み出せるようサポートしています。

 Yさんはその働きの中で、数多くの難民・避難民を受け入れ、そして就職が出来やすくなるように日本語を学ぶことのできる環境を整え、さらにアルバイトのお世話や就職口の支援に至るまで、おこなっておられるということでした。

 礼拝が終わってバーベキューの時間になりました。食事をする場所は、教会の下の階にあるホールです。でもコンロは当然、外の駐車場です。ミャンマーの青年たちが焼く係を任されていたようですが、わたしも一緒にコンロのそばにいました。ミャンマーの子たちですが、たまにわたしに声を掛けるときは日本語ですが、自分たちでしゃべるときはわたしにはわからない自分たちの国の言葉でしゃべっていました。

 でもそれが、何か心地よかったんですね。わたしに気を使って、日本語でいろいろとしゃべり続ける。それでもいいんですが、自分たちの言葉で語り合い、写真を取り合い、キャッキャと笑いながらチラチラとこちらを見る。わたしもそれに合わせてニッコリすると、またキャッキャと始まる。

 彼らにとってそこは心地よい居場所であり、自分たちがいてもよい場所。その安心感がすごく伝わって来て、とてもうれしい時間でした。

 今日読まれた福音書の中で、イエス様は収税所で徴税人マタイを目にします。収税所は人々が税金を納める場所でした。ユダヤ人がローマのために税金を集める。異邦人のために働く徴税人を、他のユダヤ人たちは差別していました。さらに彼ら徴税人は定められた額よりも多く人々から集め、その差額をポケットに入れていました。異邦人の手先と思われ、正しくないやり方で裕福になっていく彼ら。聖書には罪人、徴税人が並べて書かれることが多くあります。それほどまでに、神さまから遠く離れた存在だと人々に思われていたのです。

 その徴税人であるマタイに、イエス様は声を掛けます。「わたしに従いなさい」と。その呼びかけに応えて、マタイはイエス様に従いました。この場面、いろいろと脚色して解釈されることがあります。マタイは実は徴税人という仕事に嫌気がさしていたんだ。人の嫌がる仕事から抜けるチャンスをうかがっていたんだ。仕事も仲間もすべて捨てて、目の前にあった机もひっくり返して、彼はイエス様についていったんだ。

 確かにそのような劇的な回心であれば、とても心に残ります。しかしイエス様が声を掛けたマタイは、イエス様を自分の家に招いて、食事をしました。そしてそこには、徴税人や罪人も大勢やって来て、一緒に食事をしていたそうです。

 つまりこの記述を見る限り、マタイ自身はなんら変わっていなかったのです。イエス様に従うからといって過去の人たちと関係を切ったわけでも、富から離れて敬虔でつつましい生活をするようになったわけでもありません。マタイはいつものようににぎやかに食事をし、そこにはいつものメンバーが集まった。そしてそこにイエス様も来られたのです。

 この行為は、ファリサイ派の人々にとって許されることではありませんでした。ファリサイ派の人たちは、こう考えていました。神さまに従うということは、自分をいけにえとしてささげることだと。しかしイエス様はそうではない。神さまが喜ばれるのは愛なのだ、また憐れみなのだと。

 当時ユダヤの人々は、罪人や徴税人、また自分たちが清いと思わない人たちと、食卓を囲むことはありませんでした。でもイエス様は身をもって教えられたのです。罪人、徴税人、娼婦、異邦人、女性、子ども、すべての人は神さまに招かれている。それらの人たちと共に食事をする。そしてそこに、神さまは共におられるのです。

 民族が違っていても、宗教が違っていても、医者を必要とし、自分の居場所を、そして神さまを求めているのであれば、みな神さまの大切な子どもたちなのです。その子たちを愛の交わりの中に入れるために、神さまはイエス様を遣わされました。その思いを、受け取っていきましょう。

 マタイはマタイのまま、イエス様は受け入れました。そのことを心に覚えたいと思います。

 それはみなさんも、同じなのかもしれません。それぞれに足りないところがあるわたしたちにもかかわらず、イエス様はこの真ん中におられ、一緒に食卓を囲んでくださるのです。

 そのことを心に留め、歩んでまいりましょう。わたしたちのただ中にイエス様が来られ、「さあ、わたしに従いなさい」と食卓に招かれる。その呼びかけに応えることができればと思います。