2026年6月14日<聖霊降臨後第3主日>メッセージ

「ただで受けた物」

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 マタイによる福音書9章35節~10章8節

 特定6の特祷に、このようにありました。「あなたを愛する者のために、人の思いに過ぎた良い賜物を備えてくださる神よ」。

 「人の思いの過ぎた」、つまりわたしたちにはもったいないほどの良い賜物を、神さまは備えてくださっているというのが、このお祈りの言葉です。ところがわたしたちは、それほどのものをいただいているのだろうか、そう思うこともあります。

 もっとこういうことができれば、こんな力が与えられていれば、そんなこともあるのではないでしょうか。わたしもこういう力があればということがあります。一番は、人の心を読むことができればなあ、ということです。何かお話しをするときに、相手にピンポイントで届くような言葉を選ぶことができれば、どんなにいいだろうと思う場面に、よく遭遇するからです。

 そのような思いを持ちながら、今日の福音書を見ていきたいと思います。今日の福音書は大きく分けて、3つに分けられていると思います。最初の部分はイエス様が群衆の様子を見たところ、次に12弟子を任命したところ、そして最後は弟子の派遣です。最初は、群衆の状況です。イエス様は町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされたと書かれています。そして群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのをご覧になりました。

 そのときにイエス様は、「深く憐れまれた」そうです。聖書の憐れみ、それもイエス様が主語となる憐れみには、日本語の憐れみとは少し違うニュアンスの意味があります。日本語ではどうしても、「かわいそうに」とか「気の毒に思う」など、上から下のイメージです。しかし聖書の憐れみは、「はらわたが痛む」という意味です。その人の痛みや苦しみを知り、その痛みや苦しみが自分のものになる。胸が締め付けられ、その人と思いを共にする。共感、コンパッションという言葉がありますが、イエス様は弱り切った群衆の姿を見て、その群衆の思いに寄り添われたということです。

 ここがまず、大切なポイントだと思うんですね。そこから続く弟子の任命と派遣、それは今の教会でいうところの教勢拡大、つまり教会の勢いを拡大する、簡単にいうと信徒獲得のための出来事ではないということです。そのことを念頭に置くと、そのときにイエス様が言われた「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」との言葉も、違った意味に聞こえてくると思います。

 そのあと、イエス様は弟子の中から12人を呼び寄せます。このときイエス様の周りには、12人以外にもたくさんの人たちがいたと思われます。その人たちも12人と同じように、イエス様に従い、一緒に行動していたでしょう。では、12人の選考基準は何だったのでしょうか。最初にイエス様に声を掛けられた4人の漁師は、優先的に弟子になったかもしれません。でもその4人を見ても、特別に素晴らしい人たちではありませんでした。律法学者やファリサイ派のように、日々学んでいるわけでもありませんでした。さらにそのほかの8人の中には、先週出てきた徴税人のマタイ、徴税人とは罪人といつも並べられるほど人々に嫌われ、また神さまから遠く離れた存在だと思われていた人です。そして熱心党のシモン。熱心党とは暴力で政治を変えようとした人たちです。さらにイエス様を裏切ったイスカリオテのユダ。彼もまた、イエス様によって使徒として任命されました。イエス様には、人を見る目がなかったということでしょうか。それとも何らかの意図があったのでしょうか。

 多分イエス様は、あまり何にも考えておられなかったのだと思います。近くにいた人から、「はい、君」、「はい、あなた」と12人を選んでいった。聖書の中で12というのは大切にされている数ですから、その人数になるまで指をさしていった。

 イエス様が弟子として選んだ人たち。それは人々のそばにいって、その悲しみや苦しみに寄り添う人たちでした。自分たちの仲間を増やすために、派遣したのではなかったのです。そしてその弟子の姿は12人からスタートして今に至るまで、わたしたちに対しても「真の働き手」として伝えられているのです。

 今日、退堂のときに聖歌213番を歌います。先日聖霊降臨日におこなった聖歌アンケートの中で2票入っていた曲です。

 この213番は、収穫感謝の歌です。秋に歌うイメージがあるかも知れませんが、今日、この「働き手」というイメージの中で歌いたいと思います。

 「みのれる たのもは みわたす限り」から始まるこの歌、田んぼや麦畑が実りの時を迎えていない今だからこそ、イエス様がご覧になった群衆を思い浮かべたいと思います。

 イエス様が深く憐れまれた群衆、それは2000年前のユダヤにしかいなかった人たちでしょうか。悪霊に取りつかれた人は、なかなか見ることもないかもしれません。しかし病いやそのほかのことで打ちひしがれ、弱り切り、飼い主のいない羊のような人たちを見ることはないでしょうか。麦の穂が刈り入れを待っている状況と、悩み、苦しみの中にある人たちが手を差し伸べられるのをじっと待っている様子。そして誰がそこに行くのか、誰がそこで手を差し伸べるのか、そこが大切なのだと思うのです。

 世界を変えることやすべての争いをこの地からなくしてしまうことは、わたしたちにはできないかもしれません。しかし今、となりで悲しんでいる人、今、そばでうずくまっている人、今、目の前で居場所を失っている人と、痛みを一緒に抱えることはできるのです。

 イエス様の求める刈り入れとは、そのようなことではないでしょうか。わたしたちの周りには、神さまを求め、自分だけの力で歩むことに疲れ果てた人たちがいます。その人たちと共に歩むこと、そのためにわたしたちはこの地に遣わされているのです。わたしたちに与えられたもの、それは一気に刈り取るトラクターやコンバイン、電動で動く大きなはさみではありません。一人ひとりに寄り添えるそれぞれの道具、それを聖書では賜物と呼びますが、その賜物がそれぞれの人に十分に与えられています。

 神さまはそれらの賜物をわたしたちにただで与え、わたしたちを神さまと共に歩む者としてくださいました。わたしたちはその神さまの愛を知り、それを周りの人たちと分かち合っていきたい、そのように思います。

 神さまに与えられたわたしたちには十分すぎる恵みを手に、これからも歩んでまいりましょう。そしてわたしたちの教会が、周りの人たちと喜びも悲しみも分かち合う共同体となりますように、祈っていきましょう。