「それでもイエスに従う」
YouTube動画はこちらから
マタイによる福音書10章34~42節
今週の福音書は、とても厳しいイエス様の言葉です。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」この言葉を聞くと、私たちは戸惑います。イエス様は、愛と平和を語られた方ではなかったのか。敵を愛しなさいと教えられた方ではなかったのか。そう思うのは当然です。けれども、この言葉を安心できるように柔らかく包みすぎてしまうなら、イエス様が本当に語ろうとされたことを見失ってしまいます。聖書の言葉は私たちを慰めます。しかし同時に、私たちの生き方を深く問い直すこともあります。
まずこの箇所の背景は、イエス様が十二人の弟子たちを宣教に送り出す場面の最後の部分であるということです。マタイによる福音書10章全体が、弟子たちを町や村へ送り出す「派遣説教」と呼ばれる箇所です。弟子たちは、病人をいやし、悪霊を追い出し、「天の国は近づいた」と告げるために遣わされます。しかしイエス様は、宣教がいつも歓迎されるとは言われません。むしろ、あなたがたは迫害を受けるだろう、「人々に警戒しなさい」「あなたがたは地方法院に引き渡される」「家族の中にも対立が起こる」と語られます。つまりこの箇所でイエス様は、弟子として生きるならば、信仰のゆえに周囲との衝突や犠牲が起こることがある、と語っておられるのです。ここで言われる「剣」は、戦争や暴力を意味しているのではありません。イエス様の教えに従って生きようとするとき、その生き方は人の心を深く問い直します。そのため、それを受け入れる人と拒む人との間に、分裂や誤解が起こることがあります。イエス様の「平和」は、「何も波風を立てない平和」ではありません。神さまの前に、本当に正しい関係を取り戻す平和です。だからこそ、その平和へ向かう道の中で、一時的に対立が起こることがあるのです。それが、私たちにとって非常に身近な家族の中であっても、ということです。
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」これは、「家族を愛してはいけない」という意味ではありません。そうではなく、家族への愛さえも、神さまに従うことより上に置いてしまうなら、弟子としての道が見えなくなる、という厳しい覚悟を迫る言葉です。
思えば、私の祖父は明治生まれでした。家族の中で一人、近所に現れた聖公会の宣教師による集会に通うようになり、やがて洗礼を受けました。その後、どうしても牧師になりたいという思いが膨らみましたが、親の許しをもらうことはできず、勘当される道を選びました。直接その思いを聞くことはできませんでしたが、それがどれほど辛いことであったか、想像に難くありません。もしかしたら、この聖書箇所が、当時青年であった祖父を奮い立たせたのかもしれません。
続いて、イエス様は言われます。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」信仰生活には、時に痛みや損失や誤解が伴います。それでも私に従う覚悟があるか。これは、そういう問いかけです。イエス様に教えられ、神さまから与えられた愛を周りの人と分かち合おうとするとき、思いもよらない理不尽なことが起こることがあります。誤解されたり、分かってもらえなかったりすることもあります。その時代の社会や環境が、それを許してくれないということもあります。そんなとき、私たちには思い出すべき方がおられるということです。
ここでも祖父の話をしたいと思います。祖父は、戦時中、徳島の教会で牧師をしていました。だんだんと戦況が悪くなり、敵国であるイギリス国教会の流れを組む聖公会は、特に目を付けられていました。特高が、牧師家族の言動に目を光らせていたそうです。お世話になっていたイギリス人宣教師が、国に帰ることもできず、自宅に軟禁状態になりました。食べるものもない中、祖父は、特高の目を盗んで、毎日のようにわずかな食べ物を彼女の家に運んでいました。ある時、それが見つかってしまいます。祖父はスパイ容疑で逮捕され、拷問を受け、約40日間、留置所に入れられました。その留置所の中では、同じ部屋に入れられた人たちに聖書の話をし、聖歌を教えたそうです。そう聞くと、美談のように思えます。しかし、その間、路頭に迷わされたのは、妻と幼い五人の子どもたちでした。学校では「スパイの子」と呼ばれ、教会から信徒も離れていき、食べるものもなく、村八分のような状態に陥ったのです。大人しく政府の言うことを聞いていれば、家族を守ることはできました。しかし祖父は、それよりも、自分が今しなければならないこと、神さまが自分にしてほしいと思われることを選びました。それは、家族を愛していなかったからではありません。むしろ、誰よりも家族を愛していたからこそ、その家族を自分の手だけで守ろうとするのではなく、神さまの御手に委ねたのだと思います。
祖母は晩年、こう語ってくれました。「不思議じゃ。苦しかったけれども、みんなで祈っていれば、いつもなんとかなった。聖書に書いてある通りじゃ。明日のことを思い煩うな。明日は明日自らが思い悩む。」笑いながらそう話してくれたのを、今でも思い出します。
厳しい覚悟を迫る今日の聖書箇所の最後に、イエス様の素晴らしい慰めと励ましの言葉があります。
「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
イエス様に従う道は、いつも簡単な道ではありません。苦しみが伴います。誤解されることもあります。大切な人との間に痛みが生まれることさえあります。けれども、その道の上でささげられる小さな愛を、神さまは決して忘れられません。人には見えない忠実さも、人には評価されない親切も、冷たい水一杯ほどの小さな行いさえも、神さまは覚えてくださいます。 十字架を担うということは、苦しみだけを見ることだけではなく、その向こうにある復活を信じることです。私たちもまた、恐れながらでも、迷いながらでも、そのことを心に留めて主イエスの後に従って歩んでいきたいと思います。




