「天の国の種まき」
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マタイによる福音書13章1~9、18~23節
今日の箇所は、マタイによる福音書の13章、1節から9節までと18節から23節となっています。それぞれの小見出しですが、1節から9節が「種を蒔く人のたとえ」、18節から23節が「種を蒔く人のたとえの説明」となっています。
イエス様が舟に乗りこまれ語り始めたのが、「種を蒔く人のたとえ」です。種を蒔く人が種まきに出て行った、から始まるたとえ話です。4つの土地がその種を待ち受けます。道端、石だらけで土の少ない所、茨の間、そして良い土地です。
わたしたちは種まきをする前に、土に穴をあけ、そこに種を一粒ずつ入れていきます。しかしユダヤでは、まず種を蒔いて、その上から耕すのです。そうするとすきやくわに当たって、どこかに転がってしまう種が出てきます。その行った先が、道端や石地、茨になることなど、日常茶飯事でした。普段からそうやって種まきをしていたので、イエス様が話されたこの言葉に、みなうなずいていた、そういうわけなのです。だからこのイエス様の話を聞いている人たちは、自分はいったいどの土地なのかと考えます。とても素直な聞き方です。わたしの心は道端のように、かたくなになっていないだろうか。石地のようにすぐ受け入れても飽きっぽく、心変わりをしていないだろうか。茨のようによこしまな考えが素直な心を邪魔していないだろうか。そして自分の心が良い土地になるように、努力しましょう。頑張りましょう。それが第一のメッセージであることは、確かなのだろうと思います。しかしそれと同時に、もっと大きなメッセージもこのたとえ話には込められているように思うのです。
それは、神さまは道端や石地、茨といった、そのような心の人を、見捨てるのだろうかということです。あなたたちは良い土地ではないから、とあきらめてしまう。そうなのだろうかということです。今日のたとえのタイトルが、「わたしたちはどの土地であるべきか」であれば、そうなのかもしれません。しかし違うんですね。今日のたとえは、「種を蒔く人のたとえ」、つまり種を蒔くのはどのような方なのか、ということが大きなポイントなのです。まずここでいう、種って何でしょうか。後半の話を聞くと、み言葉のように思えます。そのほかにも、恵みや愛など、いろんなものとして考えることができます。それらはすべて、神さまから与えられるものです。そしてそれらのものは、ばらまかれているのです。ミレーやゴッホの描いた「種まく人」という絵を見たことのある方は、その絵を思い浮かべてみて下さい。その種まく人は、種をたくさん入れた麻袋を腰につけ、手をその袋に突っ込み、種を手いっぱいにつかんで、ブワッとばらまく。み言葉や、恵みや愛が、ばらまかれていくのです。そのばらまいている方は、神さまに他なりません。たとえ今、わたしたちの心が道端のように硬くても、石地のように根を張ることができなくても、茨のように他の思いが種を受け取ることを邪魔しても、大丈夫なのです。なぜならば神さまは、そんなことお構いなしに、種をばらまき続けておられるからです。
わたしたちが「良い土地」として歩むことのできるそのときまで、種を空一杯に巻いておられる神さまを想像するときに、わたしたちには受け止めきれないほどの愛を与えてくださるその姿に気づかされるのです。
そして今日は、もう一歩踏み込んでみましょう。今日の箇所には、飛ばされた部分がありました。それはマタイ13章10節から17節です。小見出しには、「たとえを用いて話す理由」とあります。
イエス様はこの種まきのたとえを、群衆に向けて語りました。するとそれを聞いていた弟子たちがイエス様に近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と尋ねます。
するとイエス様は、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」と答えるのです。先ほどの種を蒔く人のたとえの本当に意味は、簡単には理解できないのだというのです。
そして今日読まれた後半部分、18節以降の「種を蒔く人のたとえの説明」へと移っていきます。この箇所をよく見ると、最初の部分とは何か違うことに気づかされます。最初は、わたしたちは「どの土地になるのか」が問われていました。
しかし後半では、例えば「道端に蒔かれたものとは、こういう人である」というように、種がわたしたち自身であるというのです。つまり前半の「わたしたちはどのような土地か」という問いかけから、「わたしたちはどこに蒔かれていくのか」に変わっているのです。
この変化についてはいろいろな解釈がありますが、前半を群衆向け、後半を弟子向けの話だとすると、こう捉えることもできます。
イエス様と出会った頃のわたしたち。み言葉をしっかり聞こうと心を整え、耳を傾け、よい土地としてその実を結びます。でも、それだけで終わってはいけないのです。というのも、わたしたちはみな、イエス様の弟子だからです。み言葉を聞くだけではなく、それを隣にいる人と分かち合う。神さまの愛を自ら伝えていくことも求められているのです。
弟子であるわたしたちは、様々な場所に蒔かれます。たくさんの実をつける、よい土地に蒔かれることもあるでしょう。でも多くは、道端であり、石地であり、茨の間です。人々のかたくなさに心折れ、自分たちの所から去っていく人に心を痛め、他の誘惑が勝ってしまい伝えたいことがその人に届かない。宣教とは、その連続なのです。
でも、くじけずに、蒔かれ続けていくことが大事なのです。なぜなら神さま自らが、あきらめずにずっとずっと、種をばらまき続けておられるからです。わたしたちはその大きな愛をいただき続けている。その愛をいろんな土地に、届けていく。そのことこそが、わたしたちに与えられたもう一つの大きなメッセージなのです。
わたしたちの教会、たくさんの種を蒔いています。それぞれの方が与えられた賜物を用いて、種を蒔いています。そしてわたしたち自身が種となって、花を咲かせよう、実をつけようと歩んでいます。
なかなか成果が現れなくても、それは人間の目から見たものです。天の国ではそれこそ、30倍、50倍、100倍になって、豊かな実となっているかもしれません。そのことを信じて、イエス様の弟子としてみ言葉に聞き、それをばらまきましょう。
神さまはそのようなわたしたちのおこないを、祝福してくださいます。




