2026年7月19日<聖霊降臨後第8主日>メッセージ

「毒麦はどうするか」

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 マタイによる福音書13章24~30、36~43節

 イエス様はこのように語り始めます。「天の国は次のようにたとえられる」と。「天の国」とだけ聞くと、「天国」のことだと考えてしまうかもしれません。そして天国というと、どうしても亡くなった後に行く世界だというイメージになってしまいます。だからこの話を、いわゆる「死後の世界」のことだと思って聞いてしまうと、ちょっとおかしなことになってしまいます。

 まず天の国という言葉ですが、マタイ福音書以外の他の福音書を見てみると、「神の国」と書かれています。もともとは「神の国」とイエス様は言っていたようですが、マタイ福音書の主な読者であったユダヤ人は、神の名をみだりに唱えるなと教わっていました。だから神の国ではなく、「天の国」、と書いたのです。では「国」ってなんでしょうか。日本語で国というと、領土を持ったある範囲のことになるでしょう。しかし聖書のいう「国」とは、そのようなものを指しているわけではありません。いわゆる、「支配」というニュアンスの方が強い言葉です。つまり「天の国」、あるいは「神の国」というと、神さまの支配されるところ、ということになるのです。

 ということはイエス様がここで言われていることは、どこか遠くの世界や天に召された後、あるいは自分とは関係のないところでの話ではなく、神さまのみ手の中ではどうなのだということが語られているということなのです。

 そこで今日、イエス様が語られるのは、「毒麦のたとえ」というものです。毒麦という物を実際に見たことがない人でも、それがどのようなものか、ある程度理解できると思います。

 あるとき麦畑をみると、良い種を蒔いていたはずの畑に、良い麦だけではなく毒麦も現れたそうです。しもべたちは驚いて、主人に伝えます。主人が言うには、それは敵の仕業だということです。それを聞いたしもべたちは、こう提案します。「では、行って抜き集めておきましょうか」。しかし主人はそれに対してこう答えます。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。

 このたとえ話を聞いてまずわたしたちは、「この毒麦って誰のことだろう?」と考えてしまうかもしれません。身近な人から始まり、ニュースで見た人や政治家。海外の特定の国など、頭に浮かんでくるという方もおられるでしょう。そしてその「毒麦」を抜こうとする。「〇〇警察」という言葉がコロナの頃にはやりましたが、コロナに限らず、誰かが法を犯したり悪いことをしたりすると、ネットにさらしたり、家を特定して突撃したり、誹謗中傷を書き続けたり、それをみんなで寄ってたかっておこなう。

 フェイスブックやインスタ、Xなど、自分の考えを簡単に表現できるツールは、昔では考えられないほど発達しています。そして自分こそは正義なのだとうぬぼれて、悪に制裁を加えたつもりになる。しかしその批判している先が本当に悪なのかどうかについては、勝手に自分で判断しているにすぎないのです。

 聖書の世界でもそうでした。ユダヤ人のファリサイ派や律法学者と呼ばれる人たちは、罪人や徴税人、娼婦や異邦人といった人たちを、「毒麦」とみなしていました。そのような人たちは抜く、つまり共同体から排除することで、良い畑を保とうとしていました。しかしイエス様は、それは違うということを、行動をもって示されました。彼らが排除している人たちと食事を共にし、彼らに手を置き、病をいやし、そして共に歩まれたのです。彼らを「毒麦」として抜いてしまわれなかったのです。

 さてここで、毒麦についてもう少し考えてみましょう。イエス様にとって罪人、徴税人、娼婦、異邦人といった人たちは、毒麦だったのでしょうか。毒麦かどうかはわかりませんが、彼らは神さまの大切な子どもであり、すくすくと育って欲しい存在であり、豊かに実を結んでほしい、そういう一人ひとりだったことは確かです。ではファリサイ派や律法学者はどうでしょうか。彼らは良い麦なのでしょうか。それとも悪い麦なのでしょうか。この問いは、わたしたちにも向けられるのです。わたしたちは果たして、良い麦なのだろうかと。

 先ほど言った、誰かを標的として、毒麦を抜くのに必死な人たち。その人たちは自分のことを、正義だと思っています。自分こそが正しいのだというわけです。良い麦が育つ、この良い畑には、あなたたち毒麦は必要ない。だから必死で抜こうとする。神さまに「早くこの毒麦を抜いてくれ」と祈る。ここまで極端ではなくても、わたしたちの心の中にも、同じような思いがあるかもしれません。教会が陥りやすい一番の問題点は、ここなのです。

 わたしたちはどうしても、心地よい場所を求めます。自分の心が穏やかで、ゆったりする場所。特に教会は、わざわざ日曜日の午前という大事な時間にでかけるわけですから、なおさらでしょう。だから、異質なものは排除してしまう。考え方の違う人を遠ざけてしまう。そして自分たちの意見を押し付けてしまう。「毒麦を抜く」という表現は多少きつく感じるかもしれません。しかし知らず知らずのうちに、わたしたちは同じような行為をしてしまっていることもあるのではないでしょうか。

 逆に教会に新しく来られる方も、教会の中には「良い麦」しか生えていないものだと勘違いしていることがあります。教会の人はみな優しく。自分の話をただただ聞いてくれ、あらゆるサポートを笑顔でしてくれる。逆に少しでも自分にとって厳しい言葉を言われると、「こんなところは教会ではない」と去っていく。

 これらのことがなぜ起こるのか。それはわたしたちが気づいていないからです。気づいていても、心から受け入れていないからです。わたしたちは誰一人として、完全な良い麦ではないということを。「毒麦を抜きましょうか」と言えるような、そんな立場ではないということを。それどころかわたしたちは、毒麦に近いのです。毒麦自身だと言っても過言ではありません。でもイエス様はそのようなわたしたちを抜くことなく、「良い麦」として育つように見守ってくださるのです。

 わたしたちがたとえ毒麦だったとしても、辛抱強く抜くことなく、良い麦になることを期待しておられる。わたしたちがその思いに気づかされるときに、周りの人たちは「毒麦仲間」、欠けたところが多い、弱い一人ひとりであると同時に、神さまが愛してやまない一人ひとりとなるのです。

 わたしたちの教会、毒麦であふれていたって、いいじゃないですか。それこそが、神さまが望まれている世界、天の国であり、神の国なのです。そのことをわたしたちは心に覚え、歩んでまいりましょう。

 そしてわたしたちがいただいたその恵みと赦しを、となりにいる人と分かち合うことができますように。神の国、神さまの温かい愛の支配がわたしたちの間にいきわたりますように、お祈りしていきたいと思います。