2026年7月26日<聖霊降臨後第9主日>メッセージ

「天の国を探そう!」

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 マタイによる福音書13章31~33、44~49節a

 今週の福音書にあるイエス様の言葉を聞き、「分かりやすいような、分かりにくいような」と感じた方も多いのではないでしょうか。「たとえ話」とは、難しい概念を分かりやすくするために、聞く人が容易にイメージできる日常の物や物語を用いて語る手法です。今回の箇所を読むと、イエス様がいかにユーモアに溢れ、当時の庶民の暮らしに寄り添っておられたかがよく分かります。今日の箇所は、先々週の「種を蒔く人」、そして先週の「毒麦」のたとえから続く場面です。つまり、岸辺に押し寄せた大勢の群衆を前に、イエス様が湖に浮かべた小さな舟から語りかけておられる情景です。それなりの距離があったでしょうし、波の音に負けないよう、きっと大声で叫ぶように話されたことでしょう。「天の国というのはね、種を蒔く人、麦畑の毒麦、小さなからし種、膨らむパン種、畑に隠された宝、高価な真珠、魚を集める網…!」と、まるで次々とスライドを見せるかのように、提示されたのです。

  人々は聞き漏らすまいと耳を傾け、耳から入る言葉を頭の中で瞬時に映像にしたことでしょう。全部聞き取れなかったり、一つしか意味が分からなかったかもしれない。でも、イエス様の意図としては、それでよかったのだと思います。 現代の私たちは、聖書を頭で理解することに慣れてしまっています。しかし、あの湖の上から大声で語りかけられたイエス様を思い浮かべるとき、「本当に大切なメッセージとは何なのか」という見え方が、少し変わってくる気がするのです。

 今日の箇所を、少しずつ見ていきましょう。まず最初の二つ、「天の国はからし種に似ている」「天の国はパン種に似ている」というたとえ。これはイメージしやすいですね。どんなに小さなものであっても、神様の手にかかれば大きく豊かに育てられる、ということです。「大きくなる可能性を秘めたものが、ほら、あなたの手の中にあるでしょう? 握りしめていないで差し出しなさい。わたしが大きくしてあげよう」と、イエス様が呼びかけておられるようです。

 では、次の二つはどうでしょうか。「畑に隠された宝」と「良い真珠を探す商人」のたとえです。少し難しくなります。宝も真珠も、非常に高価なものです。それを見つけた人は、自分の持ち物をすべて売り払ってでもそれを買い取ります。それほどに貴重なもの、それが「天の国」だと言うのです。一見すると、めったに見つからない遠い存在のようにも思えます。たとえば、オークションで数十億円の値がつく絵画のようなものであれば、どれほど欲しいと願っても、私たちの手は届きません。しかし、イエス様が語る宝や真珠は「見つけ出し、手に入れることができるもの」として描かれています。天の国とは、義務感で苦しみながら買い求めるものではなく、それまで大切だと思っていた価値観が小さく見えてしまうほどの「絶大な喜び」をもたらすものなのです。

 そして、最後のたとえです。「天の国は、湖に網が投げ降ろされ、あらゆる魚を集め、引き上げた後に良いものと悪いものに分けられるのに似ている」という箇所です。ここには少し注意が必要です。私たちが長年親しんでいる『新共同訳』では、天の国を「最後の選り分けの出来事」として捉えるように読めます。しかし、最新の『聖書協会共同訳』では、元のギリシャ語のニュアンスをより正確に汲み取り、「天の国は、海に降ろして、さまざまな魚を囲み入れる網に似ている」と訳されています。つまり、天の国とはすぐさま「裁き」に直結するというよりも、まず何よりも「すべてを包み込む救い」の網なのだということです。もちろん、世の終わりの裁きという厳粛な側面を無視することはできません。けれども、神様はまず、すべての魚を愛の網の中に囲み入れてくださるのです。これは「他者を良い人と悪い人に分ける」という裁きを強調しているのではなく、むしろ「私たち一人ひとりの中にある弱さや悪」に向けられた言葉ではないでしょうか。どんな人間であれ、私たちはみな神様の救いに招かれています。私たちは誰もが愛の網にかかった魚なのです。その畑の中で、網の中で、私たちは神様の恵みに触れて変えられていきます。そして終わりの日には、神様が私たちの中にある悪い部分をきれいに取り去り、清めてくださる――。そのようにこの箇所は私に語りかけるのです。だからこそ私たちは、人を裁くのではなく、日々自分自身の心を見つめながら、謙遜に歩んでいきたい、そう思います。

 最後に、この五つのたとえに共通する「ある一つの特徴」をお分かちしたいと思います。 土の中に埋められたからし種。小麦粉に混ぜられたパン種。畑に隠された宝。探し求めた末に見つけた真珠。そして、水の中に投げ降ろされた網。お気づきでしょうか。これらはすべて「最初は目立たない」「すぐには見つからない」「表面からは見えにくい」という特徴を持っています。 しかし同時に、これらはすべて私たちの目が届く、ごく身近な場所にあるのです。何億光年も離れた星の光でもなければ、一生に一度行けるかどうかというピラミッドの中でもありません。あるいはスーパースターのような、特別な才能を持つ人にしか見つけられないものでもありません。天の国とは、私たちが送る「ごく普通の日常」の中に隠されているのです。日々の出来事の表面下で、私たちが気づき、見出すのを静かに待っているのです。

 その天の国とはいったい何なのでしょうか。それは神様の愛と平和が満ちあふれている状態、その空間のことです。「それはね、あなたのすぐ足元、日常の中にあるんだよ。さあ、探してごらん!」――これこそが、今週の聖書箇所からイエス様が私たちに届けてくださっている大きなメッセージではないかと思います。つい先日、長男が大好きなキャラクターのフィギュアを取ろうと、お小遣いの2,000円を握りしめて、UFOキャッチャーに挑戦しました。しかし、残念ながら取れなかったそうです。彼がうなだれながらお店を出て帰ろうとしたとき、後ろから知らないお兄さんが追いかけてきて、「キミ、これ欲しかったんでしょ? あげるよ」と、自分が獲得したフィギュアを無料で譲ってくれたのだそうです。

 その時の息子の飛び上がるような喜びは、想像に難くありません。「天の国をそんなゲームセンターの出来事と一緒にするな」と怒られてしまうかもしれませんが(笑)、それは間違いなく、彼の小さな落胆の中に差し込んだ「希望の光」でした。そして、そのあたたかい光を受け取った彼は、今度は自分が誰かに優しさを渡す番になりたいと思ったはずです。

 天の国とは、そのようにして、人の心を通して少しずつ、けれど確実に広がっていくものです。人生にはさまざまな出来事があります。涙をぬぐい、互いに励まし合いながら、神様が私たちの日常の中にそっと隠してくださっている「天の国の宝」を、今週もみんなで楽しみながら探してまいりましょう。主に感謝します。