2026年8月2日<聖霊降臨後第10主日>メッセージ

「あなたがたが与えなさい」

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 マタイによる福音書14章13~21節

 今朝の福音書は、とても有名なイエス様の奇跡物語、五千人の供食です。イエスさまの奇跡物語のうち、十字架と復活の出来事を除いて、四つの福音書すべてに記されているのは、これだけです。この出来事が当時の人々の心によっぽど強く焼き付けられ、何としても後の世代に伝え続けなければならない物語として残されたのでしょう。みなさんは、この物語、どのように受けとめておられるでしょうか。不思議すぎてにわかには信じがたいと思われる方も多いでしょう。物語は、次の一文から始まります。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。」「これを聞くと」というのは、この記事の直前に書かれている、洗礼者ヨハネがヘロデ王によって殺されたという、弟子たちの報告です。救い主の道を整えるために遣わされ、洗礼者として生きたヨハネが殺された、その悲惨なニュースを聞いて、イエス様は一人になるために舟に乗り、人里を離れられました。深い悲しみのなかで、これから歩むご自身の十字架の道を思い巡らし、神さまに苦しい胸の内を打ち明けようとしておられたのかもしれません。一人静かに祈りたい——そう切実に願われたイエス様を、群衆は方々の町から歩いて追いかけてきたのです。「助けてください!」と叫びながら群がってくる群衆を見て、イエス様は「深く憐れまれた」とあります。「深く憐れむ」、原語では、単にかわいそうに思ったということではなく、自分の内臓がしぼられるほどに相手のことを思うという意味があります。イエス様は、自分の苦しみは神さまにお預けして、人々に近づき、病人をいやされました。

 夕暮れになり、弟子たちがイエス様のそばに来て言います。「ここは人里はなれた所で、もう時間もたちました。群集を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」これは自分たちの先生を思いやって出た言葉なのでしょう。これまでずっとイエス様と寝食を共にしてきた弟子たちは、今のイエス様の気持ち、そして心身の疲れを痛いほど理解していました。しかし、イエス様の口からはまったく彼らの予想に反する答えが返ってきました。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。弟子たちのざわめきが今にも聞こえてきそうです。たった五つのパンと二匹の魚しかなかったのです。イエス様は穏やかに、パニックに陥っている弟子たちをなだめるように言われます。「それをここに持って来なさい」。そして群集には草の上に座るようにお命じになりました。そして弟子たちから渡された、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになったのです。弟子たちはそれを受け取り、群集に配りました。そして聖書にはこう書かれています。「すべての人が食べて満足した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった」と。

 ここで私たちは一つの言葉を思い出します。「主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝してこれを裂き、弟子たちに与えて言われました」。そう、聖餐式での感謝聖別の一文です。イエス様は、十字架に付けられる直前に弟子たちと最後の晩餐をし、このパンとぶどう酒を自分の体と血として食べて飲みなさいと言われたのです。それは、いつもどんなときも主が共におられるということを思い起こさせるための行為でした。弟子たちは、イエス様がこの地上からおられなくなった後、この聖餐式と呼ばれる食事を共にするたびに、かつて原っぱで起こったあの不思議な出来事を、まるでフラッシュバックのように思い出したのではないかと想像します。「あの時はただ、すごい奇跡としか思わなかった。でも、今は分かる。あれは、イエス様が自分たちに垣間見させてくれた、天の国だったということが。そして、あそこで見た天の国が、イエス様の体と血をいただいた今、ここで再び実現している。あの奇跡は昔起こったたった一回きりの不思議な出来事ではなく、今もこれからもずっと起こり続ける、神の愛の分かち合いなのだ」と。

 聖餐に集うたびに、教会は、やがてキリストが再び来られ、天の国、神の国を完成してくださる日を待ち望んできました。そして、その日をただ待つだけでなく、今ここで、神さまの愛を分かち合い、来るべき天の国を指し示してきたのです。天の国、それは神の支配を意味します。人間ではなく、神の愛が支配する世界です。ここで、私たちは思うのです。「神さまがご自分ひとりでパパッと奇跡を起こし、この世界すべてを愛で満たしてくださればいいのに。どうしてそうなさらないのだろう」と。先日の熊本での大地震、胸が痛み続けます。海の向こうでは戦争も続いています。なぜ神さまは何もしてくれないのだろう。私たちはつぶやき、いらだち、叫びます。今朝の福音書にヒントがあるように思います。イエスさまは言われるのです。「あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」。原語のギリシア語では、ふつう主語は書かれず、動詞の活用の変化によって主語が誰だか分かるのですが、ここでは主語を強調するために、わざわざ「あなたがたが」という言葉が入っています。そこに傍点が打たれていると考えてください。「あなたがたが与えなさい」。神さまはイエスの弟子であるわたしたち一人ひとりの行動を待っておられるのです。私たちが差し出す五つのパンと二匹の魚を。そして、その後イエスさまが取り、感謝し、裂き、渡されるパンを、私たちがおなかをすかせた人々に配るのを待っておられるのです。

 神さまは、私たちがキリストに示された愛と赦しをもって共に生きる世界を期待しておられます。それが天の国なのかもしれません。完成にはまだ程遠いですが、今も地上のあちこちに小さな天の国が実現しています。ニュースを見ていると熊本はまだまだ目を覆いたくなる映像が飛び込んできます。しかし、先日行きつけの美容院で聞きました。その美容院の熊本店は店内がぐちゃぐちゃになった。でも水は出たので、地震の翌日から無料でシャンプーしますという支援を始めたと。そこに、天の国の小さなしるしを見る思いがしました。今週広島原爆の日に、今年も私はチャプレンとして高校生9人を連れて、広島平和礼拝に行ってきます。何万人という人が心を一つにして平和を願う、そこもまた小さな天の国です。また、今現在、北小松では教会のファミリーキャンプが行われています。この世界を創られた神さまを肌で感じ、今生かされている感謝と、神さまに愛された一人ひとりの参加者との出会いの喜びを全身全霊で感じることができるでしょう。そこもまた一つの小さな天の国です。

 神さまを信じ、イエス様を救い主として受け入れる私たちは、様々なところで小さな天の国を体験します。でもそれを小さいままで終わらせてはいけないのです。自分が神さまから受けた愛と喜びを自分自身の中だけで、あーよかった、よかった、ありがとうで終わらせてはならないのです。私たちに求められていることは、この小さな天の国を少しずつ、少しずつ、大きくすることです。先週の日曜日、「からし種」と「パン種」のたとえが語られました。からし種もパン種もほんとに小さなものです。けれどもそれらがびっくりするほどに大きなものと変えられるように、そして、たった五つのパンと二匹の魚が、そこにいた数えきれない人々を満腹させたように、天の国は大きく、大きく広がります。そして、その天の国を大きくするのは、他のだれでもない私たち一人ひとりなのです。

 神さまの愛を人々に手渡していきましょう。大きなことでなくていいのです。入院されている方にお手紙を書く。教会から離れている人をあえてもう一度礼拝やその他の行事に誘ってみる。初めて教会に来られた方に自分から挨拶し、その人が大切な人であることを知らせる。教会で自分にどんな奉仕ができるかを考える。孤独の中にいる高齢者を気にかける。悩みを抱えていそうな人の話に耳を傾ける。募金をする。そして、誰かのために祈る。要は、最も重要な掟とされる、「隣人を自分のように愛しなさい」を実行することなのです。今日、イエス様の声が私たちの心に響いています。「あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」。私たちが差し出すほんの小さなものを、主は祝福し、裂き、世界を養う恵みへと変えてくださいます。