2026年8月30日<聖霊降臨後第14主日>メッセージ

「十字架って・・・なに?」

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 マタイによる福音書16章21~27節

 ペトロ、叱られました。先週、イエス様のことを「生ける神の子、メシア」であると告白して、あんなに褒められて、天の国の鍵までもらったのに、今日はなんと「サタン」呼ばわりです。ペトロは、先週もお話ししたように、思ったことがそのまま口から出るタイプですから、まあ仕方がないのかなとも思います。そしてイエスさまもまた、驚くほど真っ直ぐで、一切の妥協を許さない厳しさを持っておられるのだと思わされます。でも、こういう生々しいやり取りこそが、聖書を生きたものにしてくれています。二千年たった今も、イエス様は私たち一人ひとりのすぐそばにおられる。そして私たちは、聖書に登場する人々に自分自身を重ねながら、み言葉を聞くことができる。それが、聖書の大きな魅力の一つだと思います。

 それでは、ペトロはなぜ叱られたのでしょうか。イエス様はその理由を、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われます。イエス様が、ご自身はこれからエルサレムへ行き、苦しみを受け、殺されることになる、と弟子たちに告げられたとき、ペトロは真っ先に進み出て、「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言いました。それに対してイエス様は、「神さまのご計画の邪魔をするな。それはサタンのすることだ」と、厳しく叱責されたのです。でも、愛する人が苦しみ、殺されると聞かされて、それを受け入れられないのは人間として当然のことです。

 けれども、イエス様は「殺される」という言葉の後に、確かにこう言っておられるのです。「そして三日目に復活することになっている。」おそらく「殺される」という言葉があまりにも強烈で、その後に続いた言葉は、弟子たちの耳には入らなかったのでしょう。しかし、今、聖書を読む私たちは知っています。十字架は終わりではなく、復活へと続いているということを。十字架は、私たち一人ひとりを生かすために示された、神さまの愛のしるしであるということを。

 ヨハネの手紙一4章9節以下「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」イエス様の十字架は、私たちが生きるようになるためなのです。十字架には、神さまの愛が示されているのです。

 私たちは十字架をよく身に着けます。ネックレス、本のしおりやキーホルダーとして。けれども、それがいつの間にか、素敵だから、便利だからというだけのものになってはいないでしょうか。また、私たちは聖餐を受けるときに十字を切ります。「この言葉を聞いたら十字を切る」という、いつの間にか身についた所作だけになってはいないでしょうか。十字架は、あなたが生きるために示された、あなたへの神さまの愛なのです。その神さまの愛のご計画を、ペトロは、「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と拒んでしまった。だからこそイエス様は、あれほど激しく、「サタン、引き下がれ」と言わずにはおられなかったのでしょう。

 そしてイエス様は、弟子たちにこう言われます。「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」私たちは考えます。「十字架なんて重すぎます。痛すぎます。私には無理です。」誰もがそう思うでしょう。けれども、これもまた「人間の思い」なのかもしれません。

 最近、スヌーピーの漫画『PEANUTS』で素敵なセリフを息子が教えてくれました。ルーシーが尋ねます。「ねえ、なぜ私たちはこの地上に置かれたのだと思う? チャーリー・ブラウン」チャーリー・ブラウンは答えます。「他人を幸せにするためさ。」そして、それを伝え聞いたライナスは、「じゃあ、何かいいことを始めなきゃ。送り返されるのはまっぴらだからね。」と言います。『PEANUTS』には、時々、本当に聖書的だなあと思わされる言葉が出てきます。私は、「自分の十字架を背負う」ということを考えるとき、この言葉が心に浮かぶのです。

 イエス様は続けて言われます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る。」とても難しく、厳しく聞こえる言葉です。 自分の十字架を背負うこと——それは、決して無理をして苦行に耐えることではありません。神さまのために自分の命を使うということは、言い換えるなら、時に自分の思いやプライドを手放してでも、誰かを幸せにするために、誰かを笑顔にするために、与えられた命と賜物を差し出していくことなのではないでしょうか。自分のためだけに生きるのではなく、神さまのため、そして人のために生きるということです。

 昔、私がチャプレンをしている学校で、その年の入学案内のキャッチフレーズを、「なりたい自分になる」にしたいが、どうだろうかと、当時の管理職の先生から相談を受けたことがありました。私ははっきり答えたのです。「良くないです。普通の学校なら満点だと思います。でも私たちの学校はキリスト教学校です。『なりたい自分になる』ことだけがゴールではありません。神さまに喜ばれる自分になること。自分に与えられた賜物を見つけ、それをこの世界のため、人々のために使う人を育てる。それが私たちの学校の役割ではないでしょうか」と。

 本日の使徒書、ローマの信徒への手紙12章には、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」とあります。どのように自分自身を神さまに献げるのかというと、「私たちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」とあります。つまり、自分に与えられた賜物を、自分のためだけではなく、神さまのため、人のために使っていくということです。私は、これこそが、「自分の十字架を背負って、イエス様に従う」ということなのだと思います。

 9月21日、「京都教区信徒の集い」が行われます。午後のプログラムでは、当教会の6つのグループが賛美をします。どのグループも、プロではありません。完璧ではないし、失敗もするかもしれない。それでも一生懸命練習して、集まった人々の心に、神さまを賛美する歌と笑顔を届けます。きっと大きな拍手をいただくことでしょう。でも、その栄光は決して私たち出演者のものではなく、100パーセント、神さまのものです。私たちの歌を聞いた人の心が熱くなり、「今度は私も、神さまの愛を誰かに伝える者になりたい」と思ってくださるなら、これほど嬉しいことはありません。

 ぜひ、皆さんも、自分に与えられた十字架について考えてみてください。十字架は、苦しみのただ中にあっても神さまの愛が私たちを離れないことを示すしるしです。そして復活によって、痛みが喜びへ、絶望が希望へ、死が命へと変えられていくことを示すしるしです。

 今日の退堂聖歌は、476番「暗闇行くときには」です。3節にはこうあります。「悲しみは喜びに 争いに平和を 死の中には命を さあ光を灯そう」私たちは神さまから光をいただき、その光をこの世界に灯していきます。それが、私たちの使命です。9月21日が、神さまの愛をいっぱいに感じ、そしてその愛を、私たち一人ひとりが周りの人々と分かち合う、素晴らしい時間となりますように。その日のためにも、そして今日から始まる一週間のためにも、それぞれに与えられた賜物を携えて、準備してまいりましょう。