2021年7月25日<聖霊降臨後第9主日(特定12)>説教

「ピンチはチャンス」

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マルコによる福音書6章45~52節

 猛暑が続いております。皆さま、お元気でお過ごしでしょうか。この暑さの前は、それは酷い長雨続きでした。しとしとと朝から晩まで降り続くこともあれば、バケツの水をひっくり返したような豪雨もありました。その前はどうだったのかというと、コロナがまた酷くなって、お花見も満足にできない、そんな感じでした。わたしたち人間は不思議と、酷かった、しんどかったことはよく記憶に残りますが、快適な時、普通に幸せな時、心地いい時というのは本当にすぐ忘れてしまうものです。人生も同じで、色々な苦しいことが次々と訪れて、辛いことに耐えている時間はその渦中にいますと永遠に続く気がします。逆風の中を行くって本当に大変です。目も開けられないほどの雨風を正面から受けながらも、目的地を目指して歩き続けなければなりません。くるっと後ろを向いて、風に背中を押されながら、別の方向へ行けたならどんなに楽だろうと思うのですが、なかなかそうは行きません。どんなに苦しかろうと前を向いて進まなければならないのです。やっとの思いで家の玄関を開けて、傘を放り投げ、お風呂場に飛び込んで、びちゃびちゃの洋服を体をよじりながら脱ぎ、熱いシャワーを頭から浴びる。その後は、ふかふかのバスタオルに包まれて夏ならキンキンに冷えた麦茶、冬ならあたたかい紅茶で全身を潤す。その至福の瞬間を夢見て、わたしたちは今日も暴風の中を歩くのです。

 弟子たちは、急いで舟に乗りました。イエスさまに言われたからです。「さあ、先に舟に乗って向こう岸まで行きなさい。わたしは後で追いかけるから。」こんな風に今日の福音書は始まります。今週の箇所は、先週の五千人の供食と呼ばれる物語からのすぐ続きとなっています。男性の数だけで5千人、女性も子どももいれたら何万人という群衆にイエスさまは神さまのお話をし、その後、たった5つのパンと2匹の魚を、それだけの大勢のおなかをすかせた人たちがおなかいっぱいになるまでに分け与えられたという奇跡のお話でした。そのすぐ後のことでした。12人の弟子たちは、自分たちが配るパンと魚がどんどん増えていくこの不思議な出来事を飲み込めないまま、主イエスにせかされて舟に乗ったのでした。「あれはなんだったのだろう。」「確かにパンが5つと魚が2匹しかなかったはずなのに。」「いや、パンと魚が増えたようには見えたけど、実は、群衆一人一人がお弁当を持って来てたんだろうよ。でなきゃ、増えるわけがない。」「でも、あの先生は今までも僕たちの前でいろんな奇跡を行ってきたじゃないか。やっぱりすごいお方なんだよ。」そんな話をしながらでしょうか。弟子たちは、どんどん舟をこいで、湖の真ん中あたりまで来ました。夜もふけて、あたりは真っ暗です。「よし、あと半分で向こう岸だぞ!」そんな矢先、突然ものすごい突風が進行方向にある山の上から吹きおろしてきました。すり鉢の形状をしたガリラヤ湖ではよくあることです。弟子たちの中には、ガリラヤ湖の漁師たちが何人もいましたから、こんな逆風はお手のものでした。ところが、どんなにがんばっても前に進まない。どうしたことでしょう。夜空がほのかに明るんできて、お互いの顔がうっすらと見え始めました。みんなびっしょり汗をかいています。

 ちょうどその時、そんなところにいるはずのないイエスさまのお姿が見えました。それも湖の上を歩いて自分たちの舟の横を通りすぎようとしておられる。弟子たちは叫びました。いるはずのない先生がここにいる。かれらには、もう幽霊としか思えませんでした。しかし、怯えてぶるぶる震える子犬たちのような弟子たちに、イエス様は優しく声をかけられます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 

 新共同訳聖書で「わたしだ」と訳されているこのイエスの言葉は、旧約時代、モーセが燃える柴のところで、神に出会い、神の名前を尋ねたところ、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えられた、その「わたしはある」という言葉なのです。言い換えれば、「安心しなさい。わたしはある。恐れることはない。」と言われたわけです。「わたしはある」は、神の名であり、同時に神の臨在を意味しました。

 主イエスが舟に乗りこまれると、風は嘘のように静まりました。でも、弟子たちが、イエス様が単なるスーパーヒーローではなく、神の子であったということを知ったのは、ずっとずっと後、イエスさまが十字架につけられ、復活され、弟子たちが聖霊を受けた後のことでした。

 わたしたちも、時にものすごい逆風に遭います。主に呼ばれて、教会へ来て、洗礼を受け、神さまのために生きようと決心したはずなのに、前に進まない、進めないのです。周りを見ると、みんなすいすい進んでいるのに、自分の乗っている舟だけが、逆風を受けて、漕いでも漕いでも目的地につかないのです。

 わたし自身、司祭となってますますそれを感じるようになりました。どうしてですか、神さま。神さまがわたしを呼んで、命じられたんじゃないのですか、「この舟に乗って、向こう岸へ渡れ」と。一人でも多くの人に福音を伝えたい、燃えるようなその思いを持って前に進もうとしているのに、何なんですか、わたしの行く手を阻もうとするこの風は。そして、たまに心の奥底にささやき声が聞こえてきます。「神なんていないんじゃないのか?」、「イエスに呼ばれたなんて、お前の単なる勘違いじゃないのか?」 わたしは時にこの暗闇にはまってしまって恐れおののきます。同じように、せっかく主に出会って、喜びにあふれて洗礼を受けたのに、向かい風の中、舟をこぐことに疲れはてて、教会生活を断念してしまう人たちもいます。教会は癒しと、励ましと、喜びをいただく場所のはずなのに、教会生活に疲れるって、とても悲しいことです。その人たちのために、わたしたちは祈らなくてはなりません。

 しんどい、辛い、逃げ出したい。けれども、その逆風の中にいることは、決して悪いことではないということをわたしたちは知る必要があります。自分の力ではもうどうにもならないという、苦しみの中にあってこそ、「安心しなさい。わたしはある。恐れることはない」というやさしく、でも魂を揺さぶるようにしっかりとおなかの底から響いてくる主イエスの声を聞けるからです。ありきたりな言葉ですが、ピンチはチャンス、苦しみの中にある時こそが恵みの時なのです。この声にいかに気づくことができるかがポイントです。よく福音書を読むと、「イエスは湖の上を歩いて弟子たちの所に行き、そばを通り過ぎようとされた」とあります。弟子たちはその主の姿に気が付き、幽霊だと思いながらも叫びました。その声に主は振り向いてくださるのです。もう一つ「嵐を静めたイエス様」という奇跡物語が別の箇所に書かれていますが、そこでもイエスは大嵐の中、舟の中で眠っておられ、弟子たちに起こされて嵐を静められます。主は、わたしたちが困難の中で、ご自身の存在に自ら気づくこと、そしてわたしたちの心の底からの叫びを待っておられるのです。それはまるで、「可愛い子には旅をさせよ」を実践する親のようかもしれません。「行きなさい」とわたしたちを強いて舟に乗せたのはほかならぬ主ご自身なのですから。

 わたしたちの声を聴いた主イエスは、そっとわたしたちの心の舟に乗られ、同時に風は止みます。神が共におられることを確信したわたしたちは目的地へ向かって猛烈に漕ぎ出し、その途中で出会う、逆風に漕ぎ悩んでいる数々の舟をこぐ人たちのために祈り、一つ一つの舟をのぞいて手を差し伸べ、大丈夫だよ、主が来られるよと知らせてあげることができます。クリスチャンの人生は、この繰り返しなのでしょう。順風満帆なんて言葉は、主に従うわたしたちの辞書にはありません。ピンチはチャンス、なんて素敵なことでしょうか。今、逆風にあって漕ぎ悩んでいる人のために祈り、その舟に一緒に乗って、ほら主がそこに!と気づかせてあげることができますように。父と子と聖霊の御名によって、アーメン。