2022年7月3日<聖霊降臨後第4主日(特定9)>説教

「宣教と平和」

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 ルカによる福音書10章1~12、16~20節

 わたしたちは何のために宣教をするのでしょう。また、宣教とは一体何なのでしょう。そしてどのように宣教をしていけばよいのでしょうか。今日わたしたちが与えられた福音書のみ言葉を通して、今日はご一緒に宣教について考えていきたいと思います。

 今日の箇所には、このような小見出しがつけられています。「72人を派遣する」。また最初に節には、こうあります。「そののち、主はほかに72人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に2人ずつ先に遣わされた」。聖書に12という言葉はよく登場します。弟子の数やイスラエル民族の数、ヤコブの息子の数はすべて12です。しかし72という数字はと言うと、あまり聖書には出てきません。またマタイ、マルコ福音書にはこの72人を派遣する話は載せられていません。この72という数には意味があるというお話しをする前に、まずわたしたちが今年C年でおもに読んでおりますルカによる福音書、この福音書の成り立ちについて簡単にお話ししたいと思います。

 まず福音書の中で初めにまとめられたのは、マルコ福音書だと考えられています。その時期は紀元70年前後と言われていますから、イエス様が十字架につけられてすでに40年近く経った頃だということになります。マルコ福音書は、「イエス様とは何者だったのか」ということを中心に書かれました。イエス様が語ったことやなさった奇跡、そして十字架と復活という出来事を書き記し、伝えていったわけです。

 ところが、「それだけでは足りない。もっといろんな伝承、言い伝えを知っている」という人たちが現れてきます。そして10数年後に、マタイ福音書、そしてルカ福音書がそれぞれ別の場所でつくられていったそうです。マタイ福音書は、ユダヤ人に対して書かれました。それに対してルカ福音書は、異邦人つまりユダヤ人以外の人たちに対して書かれたと考えられています。

 イエス様の出来事を通して、神さまの愛と恵みは全世界へと向けられていることが分かりました。そのことを伝えなければと考え、実際に異邦人と呼ばれる人々の集まりの中で大切にされていたのが、このルカ福音書なのです。そう考えると、ルカ福音書はわたしたちに対して語られたメッセージだと捉えることもできるわけです。神さまから遠く離れて生きていた一人ひとりに、「帰っておいで」と招かれ、その呼び掛けに応じたわたしたちが、ではどのように宣教をするべきなのだろうか。神さまの愛を伝えるべきか。その問いに答えてくれるような気がします。

 さて、話を今日の福音書に戻したいと思います。イエス様は72人を派遣されました。この72という数には、このような意味がありました。それは、当時の人たちが考えていた民族の数だということです。だからこの72という数は、世界の全ての人たちに福音を伝えるんだという意味だというのです。確かにうなずけます。神さまの福音をすべての人に伝えるという意味を、イエス様は72という数字を用いて示された。なるほど、と思います。

 でもわたしはもう一つ、この72という数字を見て、こんなことを思いました。イエス様、大変だったろうなあって。少数精鋭という言葉がありますが、自分が行けない場所にいるだれかに大事な話を伝えに行くとき、誰を派遣するか、どの人をメッセンジャーに選ぶのか、とても悩むと思います。12弟子も少数精鋭といえば少数精鋭です。でも誰が一番偉いか競い合ったり、中から裏切り者が出たり、ちっともまとまりませんでした。イエス様の思いに忠実に働くことはできませんでした。

 それが72人、一気に6倍になるわけです。「この人は口がうまいから」、「この人は愛想がいいから」、「この人は律法を勉強していたから」、そんな基準で選んでいたら、いつまでたっても72人にはならないでしょう。きっとイエス様は、目についた人を片っ端から呼び寄せて、「あなたも行きなさい」と言われたのではないでしょうか。

 誰でもいいのです。民族の数が72ならば、イエス様はそれこそすべての人たちを招き、「あなたも一緒に行きなさい」と促されているのです。その人たちに特別な能力や才能があるわけではありません。それどころか、「何も持っていくな」と言われる。神さまだけを信じ、頼り、すべてを委ねて行きなさいと言われているのです。

 イエス様は派遣する72人の人たちに、3つのことを伝えます。1つ目は「この家に平和があるように」と言いなさいということです。この平和とは、「神さまから与えられる平安」とイメージした方が分かりやすい言葉です。いわゆる戦争のない状態とは少し違います。行った先にいる人たちが神さまに祝福され、心が平安で満たされるように願うこと。これが宣教なんですね。宣教は決して自分の正しさを主張し、相手の間違いを暴き出すことではありません。宣教とはお互いに神さまの恵みの中にいることを感じ、喜びにあふれることです。そのことをあなたがたは伝えなさいとイエス様は言われています。

 そして2つ目。これは少し面白い命令です。「出された物は食べ、また飲むように」ということです。わたしたちの感覚では、単純に「ラッキー」としか思わないかもしれません。でも当時のユダヤ人にとって、これは大変厳しいことでした。

 旧約聖書のレビ記には、食物規定というものが事細かく定められています。食べたら汚れる物が定められていました。また汚れた人と食事をしても汚れるとされていました。罪人、徴税人、娼婦、病人、そして異邦人。そのような人と食事をすると、自分自身も汚れるとされていた。だから「出された物を食べる」ということは、その相手との壁を取り除くということだったのです。あの人はわたしとは違う、あの人の考えは間違っている。そのような思いの中では、宣教は成り立たないのです。その人を受け入れ、その人が出す食事を食べ、そして飲む。それが神さまの福音を伝える宣教なのです。

 最後の3つ目、イエス様は言われました。「神の国はあなたがたに近づいたと伝えなさい」と。わたしたちは何のために宣教しているのでしょう。それは神の国を伝えるためです。自分たちの理想の世界を伝えるのではありません。神さまの愛で満たされた国です。

 そのためにわたしたちは遣わされているのです。72人、それはすべての人たちのことです。わたしたちを含むすべての人たちが、イエス様に呼ばれ、招かれています。そしてそれぞれの場所に遣わされています。

 神さまからの平安を願い、共に食事をし、そして神さまが共にいてくださることを伝える。そのことをご一緒におこなってまいりましょう。そして、わたしたち一人ひとりの名前が天に書き記されていることを、喜ぶことができればと思います。