2025年12月14日<降臨節第3主日>説教

「わたしたちが見聞きしたこと」

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 マタイによる福音書11章2~11節

 今日の特祷にこうありました。「わたしたちは罪に妨げられて、苦しんでいますので、豊かな恵みをもって速やかに助け、お救い下さい」。まずこの「罪」について考えてみましょう。

 一般的に罪とは、一番には法律を犯してしまうことを思い浮かべるかもしれません。聖書はたびたびわたしたち人間のことを、罪人と呼びます。しかしわたしたちは、その言葉をなかなか受け入れることができないのも事実です。

 また道徳的、倫理的な罪というものもあります。法律では裁かれないものの、「それはよくないことだよ」とされていることです。懺悔の時に「思いと言葉とおこないによって」と悔い改める罪は、そういうものを思い浮かべているのではないでしょうか。

 しかし聖書がいう罪には、もう一つ大きなものがあります。それはもともとのギリシア語が持つ意味に関係しています。この言葉には、「的外れ」という意味があるんですね。

 近所に射的の店があります。射的とはコルクのつまったおもちゃの銃をお菓子などの景品に向け、当たったらそれをもらえる。そういうシステムだと思います。通りがかりに見ていると、たいていの人は一生懸命手を伸ばしてできるだけ的に近づき、そして的めがけてコルクを発射します。それが当たるかどうかは別にして、何とか当てようと的の方向に構えるわけです。

 しかしどうでしょう。たとえば的が前にあるのに、真横に向かって打つ人がいたらどう思いますか。またなぜか的に背を向け、真後ろに構えている人がいたら、変だなあとお思いにならないでしょうか。「的外れ」、それはそのような状態なのです。目の前に的があるのに、そこにまったく目を向けず、よそを見ている。てんで見当違いの方を向いてしまっている。それが的外れということなのです。

 では聖書の言う「的」とは何でしょうか。それは、神さまです。わたしたちは心を神さまに向けているつもりが、実はまったく違う方向を向いていた。それが「的外れ」です。それを聖書では、「罪」と呼ぶのです。射的の店であさっての方向に向けて一生懸命コルクを打っている人を見たら、わたしたちは滑稽で、おかしく感じると思います。でもわたしたちはもしかすると、それと同じことをしているかもしれないのです。神さまのみ心に思いを寄せず、自分の思いだけを優先しているのかも知れないのです。

 今日の福音書には、洗礼者ヨハネが登場します。登場、といっても彼はこのとき、ヘロデによって牢に入れられていました。洗礼者ヨハネは当時、人々から、旧約の大預言者エリヤの再来だと思われていました。彼はラクダの毛衣を着、イナゴと野蜜を食べ、荒れ野で悔い改めをするようにと叫んでいました。また権力に屈することなく、時の指導者を批判していました。彼が牢に入れられたのも、ヘロデ王が兄弟の妻であるヘロディアを奪い、自分の妻としたことを、ヨハネが非難したためでした。

 質素な身なりをして、貧しい生活をし、自分に厳しく、そして他人にも厳しい洗礼者ヨハネ。彼は荒れ野で断食をしながら、神さまの言葉を人々に伝えていきました。彼は道を備える者として、「もうすぐ来るべきお方が来る」と叫んでいました。

 その「来るべきお方」とは、イエス様のことだとヨハネも思っていたことでしょう。しかし牢にいるヨハネの耳に入ってくるイエス様のうわさは、自分が思い描く「救い主のイメージ」とはかけ離れていたようです。人々はイエス様のことを、こう言います。「大食漢で大酒飲み。徴税人や罪人の仲間だ」と。別の箇所でイエス様は、人々にこう尋ねられたことがあります。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と。断食は、律法で定められたことでした。しかしイエス様は、弟子たちにそれを強いることはなさいませんでした。それどころか人々が「汚れた者」とレッテルを貼り、食事どころか日常的な関わりさえ拒絶していた徴税人や罪人と一緒に食事をしていたのです。

 そこで、洗礼者ヨハネの心に疑問が浮かぶのです。自分はこれまで神さまの思いを聞き、道を備えるために歩んできた。でもどうだろう。わたしの耳に入るこのうわさは。大食漢で大酒飲み。それが本当に、わたしたちが待っているお方なのだろうかと。

 ヨハネは牢に入っていました。でも弟子たちとの面会は許されていたようです。ヨハネはそこで、弟子たちをイエス様の元にやって、尋ねさせたのです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と。

 イエス様はその問いに対し、こう答えられました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。洗礼者ヨハネは荒れ野で叫び、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。彼は敬虔な生活を送り、そして人々にもそれを求めました。「自分の力で神さまに少しでも近づく」、そのことを彼は大切にしていたのでしょう。

 しかしイエス様が関わってきた人たち、目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人、耳の聞こえない人、死者、貧しい人、そしてここには書かれていませんが、罪人、徴税人、娼婦、異邦人、そのような人たちは、自分の力だけで神さまの前に立つことなどできませんでした。

 そのような人たちは「汚れた人」として、人々の視界から外されていました。イエス様の誕生の知らせを真っ先に聞いた羊飼いもそうです。人々に差別され、蔑まれ、人として扱ってもらえない。そのような人たちの元に、イエス様は行かれたのです。そのような人たちと、イエス様は共に歩まれたのです。

 洗礼者ヨハネはもしかしたらこのとき、「的外れ」だったのかもしれません。しかしわたしたちも、神さまがなぜイエス様をわたしたちのために遣わされたのか。イエス様はどのような人たちと共におられるのか。その思いをもう一度心に覚える必要があると思います。

 あなたの心が乾ききっているとき、そこにイエス様は来られます。あなたが悲しみの涙を流しているとき、そこにイエス様は来られます。あなたが暗闇でうずくまっているときに、そこにイエス様が来られます。

 わたしたちが自分の力で歩むことも、自分の力で神さまに向かうこともできなくなったときに、そこにイエス様が来てくださるのです。それが降誕日、クリスマスの喜びなのです。

 すべての人に、愛を届けたい。誰一人として置き去りにせず、豊かな光で包みたい。それが神さまの思いです。その思いを受け止め、わたしたちは心にイエス様を迎え入れていきたいと思います。そして一人でも多くの方にその光が届けられ、共に神さまを賛美することができますように、お祈りをしていきましょう。