「網は捨てられないけれど」
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マタイによる福音書4章12~23節
顕現後第3主日となりました。さて、今年の大斎節は2月18日の灰の水曜日から始まります。顕現節は、イエス・キリストがどんな方であるかが明らかにされ、私たち一人ひとりが弟子としてどう生きるかへ導かれる時期です。
今日の福音書には、イエス様が弟子たちに初めて声をかけられた場面が描かれています。ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたイエス様は、漁師の兄弟、ペトロとアンデレをご覧になり、こう言われます。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」この言葉はとても有名で、美しく響きます。けれど同時に、少し不思議にも感じます。なぜなら彼らは、趣味で釣りをしていた人々ではなく、漁師という立派な仕事を持ち、家族があり、生活があり、責任を背負っていた人たちだったからです。
しかも彼らは、仕事の最中でした。ペトロとアンデレは湖で網を打っている最中。続いて登場するヤコブとヨハネも、父親と一緒に船の中で網の手入れをしている最中でした。つまり、彼らは遊んでいたのではなく、その日その日の生活のために真剣に働いていたさなかだったのです。そんな時に、見ず知らずの人から突然、「わたしについて来なさい」と言われたらどうでしょうか。「本当にこの人について行っていいのか」「家族はどうするのか」「今日の収入はどうするのか」普通ならそんな不安が湧いて当然です。けれど、聖書はこう記します。「二人はすぐに網を捨てて従った。」その時の心境は詳しく書かれていません。ただ、「すぐに」とあるのです。
「網を捨てる」という言葉を聞くと、仕事を辞めること、責任を放棄することのように思えるかもしれません。しかしここでの「網」は、単なる道具ではありません。彼らにとってそれは、生きる術であり、生活を支える柱でした。つまり網とは、「これがあれば私は大丈夫」「これがなければ私は生きていけない」と思ってしまうものです。網を捨てるとは、持ち物を手放すこと以上に、自分の人生の支えを、もう一度イエス様に預け直すことなのではないでしょうか。
そしてイエス様は言われます。「人間をとる漁師にしよう。」この言葉も、少し怖く聞こえるかもしれません。「捕まえる」「引っ張って連れてくる」というイメージが浮かぶからです。けれど、イエス様がここで言われたのは、誰かを無理やり引きずり込むようなことではありません。彼らはそれまで、自分たちが生きるために魚を捕っていました。けれどこれからは、人が本当の意味で生きるために働く者となる。道が分からなくなってしまった人に寄り添い、神さまへと出会わせる者となる。それが「人間をとる漁師」なのです。そして、この招きは、二千年前の漁師たちにだけ向けられたものではありません。今日、私たち一人ひとりにも向けられています。
私は今、牧師として歩んでいます。牧師を志したのは20年ほど前、30歳を超えてからでした。そのきっかけとなった出来事を、少しだけお話したいと思います。私は以前、美容業界で化粧品輸入の仕事をしていました。女性たちが美を通して自信を取り戻していく姿を見るのは、嬉しいことでしたし、やりがいもありました。けれどある時、南アフリカ共和国へ買い付けに行った際、忘れられない光景を見ました。車で移動する途中、窓の外には貧しい掘立小屋が延々と続いていました。電気も水道もないところで暮らす人たちがいました。そして数時間後に着いたのは、豪華絢爛な白人の女性社長の大きな家でした。すぐ隣には工場があり、そこでは黒人の女性たちが生き生きと働いていました。
その晩、商談の席で、私たちは価格交渉をしました。すると相手の社長は最後にこう言いました。「わかりました。従業員の給料をできる限り下げましょう。それは可能です。」私はその場で言葉を失いました。私たちが“安さ”を求めることは、誰かの生活を削ることにつながってしまう。その現実を突きつけられたのです。そして帰りの飛行機の中で、私は静かに思いました。もしかすると私は、誰かを明るくするために、別の誰かを傷つける仕事をしていたのかもしれない。私が人に届けたいのは「きれいに見えること」だけではなく、「大丈夫だと思えること」「自分には価値があると信じられること」「愛されていると感じられること」その内側からの輝きなのだと。
それからすぐに牧師になったわけではありません。でも今思えば、その時、私の心に聞こえていたのは、イエス様の「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という招きの声だったのだと思います。とはいえ、ペトロやアンデレのように「すぐに」とはいきませんでした。そして私も、弟子たちのようにすべてを捨てて従えるわけではありません。お金は必要です。家族も大切です。仕事も友人も趣味も大事です。自分のための時間も欲しい。私は今でも、いろんな「網」を手放しきれずにいます。牧師であっても、です。
でもそんな私の心に、いつも浮かんでくるのは、イエス様の「大丈夫、それでいいんだよ」という笑顔です。網を捨てることは、一度きりの出来事ではなく、何度も何度も、神さまの前で手を開いていくことなのではないでしょうか。何かをするとき、何かを決めるとき、「イエス様だったらどうなさるだろうか」と思い返す。その小さな積み重ねが、私たちの「網を捨てる」歩みになるのだと思います。
弟子に呼ばれたのは、ペトロやアンデレだけではありません。私たち一人ひとりが、神さまの招きの中に置かれています。全員が牧師になるという意味ではありません。家庭にいる人も、働く人も、学ぶ人も、病を抱える人も、迷いの中にいる人も。それぞれの場所で、それぞれの網を持ったまま、それでも神さまの声を聞きながら、一歩ずつ、「イエス様と共に生きる」方向へ向かっていくのです。
神さまは、完璧な人を探しておられるのではありません。呼びかけに応答する者を招いておられるのだと思います。どうか私たちが、この主の招きの声を聞き、「ついて行かせてください」と言える者とされますように。




