2024年2月25日<大斎節第2主日>説教

「私にまかせなさい!」

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 マルコによる福音書8章31~38節

 大斎節第二主日となりました。今朝の聖書は、旧約聖書、福音書共に非常にしんどい箇所です。「あなたは、これこれをしなければならない。」嫌ですよね。それも今回は、神さまの命令で、その内容はと言えば、なかなか素直に「はい」と返事しにくい非常に厳しいものです。旧約は、「あなたの愛する独り子を焼き尽くす献げものとしてささげなさい。」という神からアブラハムに対する言葉。福音書は、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。」弟子たちに対するイエス様の言葉です。

 私たちは救いを求めて教会へ来るのに、どうしてそこでこんな厳しいことを言われなければならないのでしょうか。日々の生活に心身ともに疲れ果てた私たちが聞きたいのは、こんな恐ろしい脅しのような言葉ではなく、むしろ「あなたは私の目に高価で尊い、私はあなたを愛している」、「疲れた者は私のところに来なさい。休ませてあげよう」「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。」「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい」といった安らぎの言葉です。条件はありません。あなたはあなたのままでいい。あなたは赦されています。無条件の愛を与えてくださるお方、それが神さまです。そんな癒しの言葉を受け取るために私たちは教会の門をくぐるのでないのでしょうか。いやいや、神さまだって自分の愛する子どもたちに対して、ちゃんと飴と鞭を使い分けて育てようとされているんだ、そんな解釈もあるでしょう。「神は私たちに乗り越えられないような試練はお与えにならない」という言葉もありますから。でも、これを乗り越えないとご褒美はもらえないとか、これをしなければ天国に行けないというのは、イエスさまの福音の本質とはちょっと違う気が、私はしています。

 今朝の旧約聖書、創世記22章のアブラハムとイサクの物語を見てみましょう。アブラハムは、ノアの洪水の後、最初に神様に選ばれた預言者で、イスラエル民族の始祖、信仰の父と呼ばれる偉大な人物です。彼は既に年老いていましたが、これから諸国民の父となること、そして、同じく年老いた妻からイサクと呼ばれる息子が生まれるということを神さまから予告され、その通りになります。彼が100歳の時に生まれたイサクは、それはもうアブラハムにとって目に入れても痛くない存在でした。そんなアブラハムに対し、神さまはある日言うのです。「アブラハム、あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」次の朝早く、アブラハムは命じられた通り、息子イサクを連れて山へ向かいました。神さまに言われた場所に到着したアブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その上にイサクを縛って載せ、刃物で息子を殺そうとします。その瞬間、天使が止めるのです。「やめなさい。あなたがちゃんと神さまに従う人であることがわかった」と。そして、近くの茂みには、イサクの代わりにいけにえとして捧げられる雄羊が神さまによって用意されていたのでした。

 こういうお話です。そのまま読むと、神さまは時に私たちの信仰を試されるという話であることが分かります。それにしても、信仰を試されるのに自分の子どもを殺せるかどうかというのはあんまりです。当時の人々の心にはもしかしたらすんなり入ったのかもしれませんが、2024年を生きる私たちには入りません。そして、無理に入れなくていいと思うのです。そのまま受け取ってしまうとむしろ危険です。では、今の私たちにこの聖書の物語は何を伝えようとしているのでしょうか。

 それは、他でもない、すべては神さまのものだということです。愛する子どもも自分の所有物ではない。子どもは授かりものではなく、預かり物なのです。この物語の中では、当時の人々にとって非常に理解のしやすい「焼き尽くす捧げ物」と表されていますから、すぐに、神さまのために我が子さえも殺すという発想になってしまいがちですが、そういうことではないでしょう。神さまに認められるために、愛する家族を犠牲にしなければならないとなると、それはもうカルトです。完全に間違っています。愛の神さまが、あなたが愛する者を傷つけてまで自分を愛しなさいなどと言われるわけがありません。そうではなく、子どもは神さまにお任せしなさいということです。自分の思い通りに育てようと躍起になるのでなく、神さまにお委ねしなさい。必ず守ってくださるから、必要なものは備えてくださるから。そういうことではないでしょうか。

 これは実は私自身のことでもあります。十代の子ども二人を育てるのは大変です。自分の更年期も相まってか、最近よく発狂してしまいます。彼らの考えが、自分が正しいと思っていることからずれるとおかしいと感じてしまいますし、同世代の友だちのよくできた子どもたちと比べると、なんでうちの子は?となります。

 ついこないだも、スーツケースをお店に忘れて旅に出てしまった息子のために、補式をするはずだった礼拝に遅れてしまいました。発達障害を持っていますから、こういうことはあるあるなのです。でも、私が礼拝に遅れて会衆席に座ったことに対し、後で一部の信徒さんが厳しく非難されていたということが分かりました。もっともです。もっと早い時間に一緒に改札まで行けばよかったのにそれをしなかったのは私の責任です。でも事は起こってしまいました。その時、遠くの駅で一人パニックになっている息子をそのまま神さまにお任せして、何事もなかったかのように礼拝のお手伝いをするのか、礼拝は主任牧師に任せて、スーツケースを抱えて息子の元へ走って行くのか、どちらが正しかったのでしょうか。分かりません。今日の話から行くと、前者のような気がします。でも、よくよく神さまの声に耳を傾けると、きっとそこじゃないのです、神さまが言われる「私に任せなさい」というのは。

 神さまは、その時々に私たちがどう行動するべきかを言われているのではなくて、「大丈夫、あなたはこの子のことが心配でたまらないだろうけれど、私に任せなさい。あなたがその子を愛する以上に私は彼を愛しているから。」そんな神さまの優しいお声が今私の心の中に、カイロが入っているかのように温かく響いています。でも、悲しいかなこのカイロはやがて冷たくなってしまい、また私が発狂する時が訪れるでしょう。でもその都度、神さまは「大丈夫だから私に任せなさい。握りしめている手を開きなさい」と言ってくださるのです。

 今日の福音書の、イエスさまの言葉、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」というのも、聞くと一瞬怖い感じがしますが、実は神さまの愛の言葉です。自分の思いにしがみつくのではなく、神さまの愛の中に身を置きなさいということ。全てを神さまに委ねて生きなさい、神さまのみ心に従いなさいということです。そのあと、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」とありますが、これも一見、殉教することが奨励されているように聞こえてしまいますが、そうではありません。ここの「命」の部分をあなたにとっての「大切なもの」に置き換えてみましょう。私だったら子どもです。「自分の子どもを救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために子どもを失う者は、それを救うのである。」言い換えれば、自分の子どもを自分の力で何とかしようと思うならば、その子の放つ光は失われてしまう。しかし主を信じて、神さまのみ心にお任せするならばその子は救われ、良き道へと導かれる。そう捉えることができないでしょうか。

 聖書は神さまからの私たち一人ひとりに対するラブレターです。そんな恐ろしいこと!と思うような箇所に出会ったら、このことを思い出してください。神さまはまず、あなたを愛しておられます。ありのままのあなたを愛しておられます。すべてをゆだねて、この神さまの大きな愛の中に身を置きましょう。今日の奉献の聖歌は470番を歌います。歌詞を噛みしめていただきたいと思います。

 「人の目にはすべなしと見ゆる時も主は必ず良き道をば備えたもう。われは信ず。主必ず整えて与えたもう。」