2020年12月27日<降誕後第1主日>説教

「まことの光」

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ヨハネによる福音書1章1~18節

 

 今年のクリスマス、皆様はどうお過ごしになられたでしょうか。なんだか寂しい、いつものようにウキウキした気分になれないクリスマス、悲しいなぁと感じた方が多くおられるのでないかと思います。わたしもそんな風に感じました。でも、もしそうであるなら、わたしたちは本当のクリスマスの意味を分かっていないのかもしれません。毎年「クリスマスおめでとう」とあいさつをしながら、クリスマスがなぜ「おめでとう」なのか、あまり考えていなかったかもしれません。もちろん、わたしたちクリスチャンは、教会で毎年その話を聞くのですけれども、そこでは、「今日はイエス様の誕生日、神さまがわたしたちのためにイエス様をこの世に送ってくださった日、だからおめでとう、みんなでお祝いをしようということだけが頭に残って、そのイエスとは何者なのか、彼の存在にどういう意味があって、それがわたしたち一人ひとりとどうかかわるのかという、いわゆるめんどくさいことは、スルーしてきたような気がします。今日、降誕後第一主日は、毎年ちょっと落ち着いた日曜日ですが、この日、一年の最後の日曜日に静かに、ヨハネによる福音書が教えてくれる、クリスマスとは何かということに思いを馳せてみましょう。

 クリスマス物語といえば、マタイとルカによる福音書に記された降誕物語ですけれども、ヨハネによる福音書にはそれがありません。マタイとルカに記されているのは、イエスがどのようにお生まれになったかということであるのに対し、ヨハネは、イエスとは何者なのか、なぜお生まれになったのか、イエスの誕生は一体なにを意味するのかということを書いているのです。文章には、書かれた当時のユダヤ人の思想とギリシア哲学が影響しているので、とても抽象的で分かりにくい感じがするのですが、はっきりと言われていることは、イエスは神の子であり、神のことばであり、わたしたちを照らす光であったということです。

 ここに何度も出て来た「ことば」という語、ギリシア語では「ロゴス」というのですが、みなさんお気づきでしょうか。日本語の聖書では、「ことば」という漢字に葉っぱの「葉」という字がありません。英語の聖書では、普通に「Word」という単語が使われますが、最初のwは神の固有名詞を表すとして大文字にされています。そっちは分かるのですが、なぜ日本語では「言う」と「葉」を合わせた「言葉」という語を使わないのだろう?と不思議に思い、言葉という語の語源と由来を調べてみました。すると面白いことが分かりました。もともと、古代の日本語には言語をあらわす語は、「言う」という漢字一文字で、「こと」しかなかったのだそうです。それは同時に「事実」の「事」と書く「こと」の意味と強く結びついていて、「言うことは現実になる」という風に考えられていました。でもそんな重い語を普段使いできないということで、奈良時代のころ、万葉集ができる時代のころから、事実を伴わない口先だけの軽い意味でも使えるように、「葉」が後について、言葉となったのだそうです。なるほど。ヨハネがここで語る「ことば」とは、わたしたち人間が語る口先だけの「言葉」ではなく、「言うことは現実になる、事実である」という非常に重い意味をもった「言」なのです。それは、神さまの、あやふやではない絶対的な言葉、神さまの思いが込められた言なのです。では、この神さまの言葉、神さまの思いとはいったい何だったのでしょうか。

 天地創造の場面を思い出してみましょう。この世界の万物は神の言によって成っています。創世記第1章1節より。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」神さまの第一声、最初の言葉は「光あれ」でした。なぜ光だったのでしょう。もし、あなたが神であったなら、最初に何を造ったでしょうか。空気だったかもしれない、水だったかもしれません。きっとわたしたちにとってなくてはならないものを真っ先に言うことでしょう。確かに光も必要です。でも、わたしたちが知っている自然の光は太陽の光です。不思議なことに、この創世記の天地創造物語を読み進めると分かりますが、神さまは太陽を最初の光とは別に造っておられるのです。それも第四日目に。では、この最初に造られた光は何なのでしょう? もしかしたらわたしたちの目に見える、あるいは肌で感じる光ではないのかもしれません。

 光が現れる前、「地は混沌であり、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。それはこの上ない不気味な風景です。救いようのない絶望の風景です。その中にとどろいた最初の神の言葉が「光あれ」だったのです。その光はいのちを生み出しました。いのちとは、希望です。いのちとは、愛の結晶です。神さまの大きな愛と希望によってこの世界は造り上げられていきました。そして、創造の最後、第6日目に神様はわたしたち人間をみかたちに似せて造られました。そこでの神様と人間との関係は美しく、嘘偽りがなく、純粋に愛し合う関係でありましたし、またそこに生きる人間同士も常に自分を愛するように相手を愛することが出来ていました。ところが、神の命令に背き、わたしたちが神になろうとした瞬間に人間は神様から引き離され、暗闇に生きることになったのです。外の光はどんなに明るくても、常に闇の陰が心に付きまとい、人間同士でいさかいが絶えず、私たちの住む世界は、神さまが最初に「光あれ」と言われた以前の姿に戻ってしまったかのようになりました。 

 でも、神様はあきらめることはなさいませんでした。どうしても、どうしてもわたしたちともう一度繋がりたい。わたしたちと愛の関係にもう一度戻りたい、その一心で一つの決心をなさいました。それは神さまの大切な独り子をわたしたちのもとへ送るという計画でした。御子イエス・キリストです。神さまの言、神さまの思い、神さまの愛を伝えるために遣わされたイエス様は、わたしたちにもう一度命をもたらす希望の光だったのです。

 その光である神の言は、特別に選ばれた賢い人たちや能力のある人たちだけに分かるような難解な言葉としてではなく、どんな人であれ、すべての人間に伝わるようにと、今にも壊れてしまいそうな小さな赤ちゃんとして、この上なく貧しい場所に、お生まれになったのです。自分で歩くことも話すこともできない赤ちゃん、それが神の言でした。その小さな貧しい一人の人間を通して、神さまはわたしたち一人ひとりへの思いを伝えようとなされたのです。神さまの驚くべき御業です。

 おとといのクリスマスの日、わたしは現在管理牧師をさせていただいている菰野聖十字の家、障がい者施設と老人ホームの中にある聖マリア教会で降誕日礼拝をおささげしました。うれしいことに、そこで洗礼式を行いました。耳がまったく聞こえず口もきけない方の洗礼式でした。わたしは恥ずかしいことにその方を13年ほど前から存じ上げていながら、その方を洗礼に導こうと思ったことはありませんでした。手話を知らず、まわりに知っている方もおらず、その方と取れるコミュニケーションは笑顔で挨拶するくらいしかなかったため、最初から諦めてしまっていたのです。ところが、コロナ禍で長らく訪問させていただくことが叶わず、礼拝が中止となる期間が続く中、老人ホームの中で90歳近くの退職司祭を中心に小さな祈りの会が始まり、誰かがその耳も口も不自由な方をお連れして、少しずつ少しずつ筆談しながら聖書の勉強が始められて行きました。そして、このクリスマスに洗礼が実現したのです。なんという神さまの驚くべき御業でしょう。わたしは大いに反省させられました。神さまの言というものを一体なんだと思っていたのでしょう。神さまは幼子イエス様をこの世に送られたように、人間の言葉をはるかに超える本物の言葉で、その方に語りかけ続けておられたのです。

 わたしたち一人ひとりともう一度繋がりたい、もう一度愛し合う関係に戻りたいと思われ続ける神様は、混沌の闇の中に生きるわたしたちに本当の光を送ってくださいました。自分の心の暗闇を知り、そこに灯された小さな光を受け入れるとき、わたしたちは新しいいのちに生き、光の中を歩んでいくことができるのです。どんな闇の中にあろうとも、神さまがわたしとともにおられるという確信を新たにする日、それがクリスマスなのです。

 神さまの言は、口先だけではありません。必ず実現する言です。今こそ、わたしたち一人ひとりの心の中に響き続ける「光あれ」という神の言に耳を傾けましょう。光は暗闇の中で輝いています。

 クリスマス、おめでとうございます。