2020年11月1日<諸聖徒日>説教

「幸いな人」

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マタイによる福音書5章1~12節

 今日の聖書の箇所ですが、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」という言葉から始まります。ではイエス様の周りに来た群衆とは、いったいどのような人たちだったのでしょうか。

 いつも真面目に律法を学び、それを守っているような人たちでしょうか。裕福な家系に生まれ、いつもぜいたくに暮らしているような人たちでしょうか。立派な家に住み、家族にも恵まれ健康に生きているような人たちでしょうか。

 実は今挙げた3つの例、律法を守る人、裕福な人、家族に恵まれ健康な人、それらの人たちは当時の社会において、「神さまに祝福された人」だと考えられていました。お金を得ることも、子どもに恵まれることも、病気にならないことも、すべて神さまのお恵みなのだと考えられていたのです。

 そんな、「神さまに祝福されている」と思われていた人たち、彼らはイエス様の元に行ったでしょうか。興味本位で、というのはあったかもしれませんが、多分行かなかったと思います。行く理由がないからです。

 ではイエス様の元には、どんな人たちが集まってきたのでしょうか。今日の箇所の直前、マタイ4章23~25節にはこのようなことが書かれていました。

 イエス様がなさったこと、その一つは教えたということです。ガリラヤ中の諸会堂で教え、そしてまた福音を宣べ伝えました。そしてもう一つは、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされたということです。その結果、あらゆる場所から大勢の群衆がやって来たとあります。

 つまりイエス様の周りに来た群衆とは、イエス様にすがり、イエス様を頼り、イエス様を必要としていた人たちでした。自分の力だけでは生きていけない、そのように思っている人たちが、イエス様の元にやって来たのです。イエス様の言葉を求め、いやしを求め、やってきたのです。

 裕福であること、家族に恵まれること、健康でいられること、それは神さまから祝福されているしるしだと考えられていました。そうであるならば、貧しく、孤独で、病気を抱えている人たちは、人々からどのように思われていたのでしょうか。

 彼らは人々に、こう思われていました。「神さまに呪われている」と。何か悪いことをしたから、財産が奪われたに違いない。神さまの罰を受けたから、子どもにも恵まれなかったんだ。神さまの怒りによって、あの人は病気になったんだ。

 彼ら自身、自分たちは「神さまに見捨てられた」と思っていたと思います。自分の力ではどうすることもできない状況、周りの人からは蔑まれ、バカにされ、生きていくのも嫌になっていたときに、イエス様のうわさを聞くのです。そして彼らは山の上から語られるイエス様の言葉に耳を傾けるのです。

 イエス様が最初に語られた言葉、それはそんな彼らにとって驚くべきものでした。心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

 今ここで聞きますと、何だかイエス様は一般論を語っているような感じを受けます。聞いている人たちも、「さて、自分の心はどんな状態なのだろうか。貧しいだろうか」と自分自身に問いかけながらイエス様の言葉に耳を傾けている、そのように感じてしまうかもしれません。しかし元々の言葉では、語順を含め、日本語のニュアンスとはかなり違ってきます。

 「幸いだ」、その一言で始まるのです。「幸いだ」。その言葉は、祝福の言葉です。そのイエス様の目の前には、疲れ果て、すがりつき、求めている群衆がいました。イエス様はその人たちに向かって、「幸いだ」と語っておられる。あなたたちは幸いなのだと宣言しておられるのです。

 よくここから始まるイエス様の言葉を、「山上の垂訓」とか「山上の説教」、「山上の教え」という言い方をします。たしかにそれもあるでしょう。でも、それよりもまず、イエス様は群衆を「幸いだ」と祝福された。「山上での祝福」がここに描かれている。そしてそこに、わたしたちも招かれているのです。

 わたしたち一人ひとりの心の中には、様々な思いが渦巻いています。人には言えないこともあるでしょう。何かを求めてこの場に座っている人もおられると思います。自分の力ではどうしようもない状況に今、うろたえておられる方もいるでしょう。

 特に今日、この諸聖徒日の礼拝で、わたしたちは死というものに向かわされます。死という、だれ一人として免れることのできない現実を目の前にしたときに、わたしたちの心は波立ち、恐れにとらわれてしまうかもしれません。そのときに、このイエス様の言葉が届くのです。「幸いだ」というイエス様の祝福が与えられるのです。

 そしてイエス様は「幸いだ」という宣言に続いて、「心の貧しい人々」という言葉を続けられます。心という言葉は、本来「霊」と訳されるべき言葉です。しかし霊が貧しいといわれてもなかなか分かりにくいかもしれません。

 この「霊」という言葉を聞いて思い出すのは、天地創造の場面です。神さまは最初の人間であるアダムの鼻に、ご自分の息を吹き込まれました。息も霊も同じ言葉です。つまり私たち人間は、神さまから頂いた息、霊によって生かされているのです。

 だとすると霊が貧しいとはどういうことなのでしょう。ここでいう貧しいとは、ちょっとお金が足りないとかそういうレベルではありません。カラッカラの状態です。雑巾絞りを思い浮かべてください。渾身の力を込めてギューッと絞った。それだけではカラッカラではありません。それをさらに砂漠に数か月置いてきた、それくらいがこの「貧しい」なのです。

 わたしたちの心が、霊が、カラッカラになって、神さまどうか助けてください。わたしに目を向けてくださいと叫ぶとき。そのときこそ、心の貧しい者よ、あなたは幸いだと祝福してくださる。わたしたちには必ず手が差し伸べられるのです。

 イエス様がわたしたちの元に来られた理由、それはここに凝縮されています。あなたは幸いなのだ。そのことだけを伝えてくださる。神さまは決して見捨てない。そのことだけを約束してくださる。

 そのイエス様の愛を感じながら歩んでまいりたいと思います。すでに天に召されたわたしたちの愛する人たちを覚え、これからもお祈りしていきましょう。