2024年1月28日<顕現後第4主日>説教

「権威ある教え」

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 マルコによる福音書1章21~28節

 イエス様は、活動の開始場所としてカファルナウムという場所を選ばれました。カファルナウムはガリラヤ湖のほとりにある、漁で生計を立てている人が多くいる場所です。その経済状況は、お世辞にもよかったとは言えなかったようです。当時の経済や宗教の中心地は、エルサレムでした。エルサレムには多くの人が集まり、また多くの宗教指導者も行きかっている場所でした。神さまの愛を手っ取り早く伝えようとしたら、もしかするとエルサレムを選んだ方が早かったのかもしれません。というのも、当時会堂などで人に語るときには、「誰々はこう言った」と有名な人の名前を引き合いに出して、自分の意見を正当なものとして証明しながら語っていくというやり方が一般的でした。

 たとえば宇宙の話をするときに、「宇宙というのは果てしなく広がり、また今もどんどんと広がり続けている」とただ言うよりも、「ホーキング博士が言っていたように」と前置きすると、何だか真実味が増すという感じになるようなものです。

 そのために、これから宗教を人々に指導していこうと考える人たちは、ラビと呼ばれるユダヤ教の先生に弟子入りしていきます。そしてその先生の権威を利用して、自分の言葉を正当化していくわけです。だからそのような宗教指導者がたくさんいるエルサレムという場所に行き、誰かよさそうな先生を探し出して弟子入りし、その人の言葉にならって話をしていくということの方が、カファルナウムという田舎の町で宣教を開始するよりもよかったはずです。

 そもそもイエス様は、大工の息子でした。神殿に仕えていたわけでも、律法をずっと学んでいたわけでもありませんでした。それでよく安息日の会堂で語ることができたとも思いますが、ともかくイエス様は何の後ろ盾も持たない中で語られたのです。

 そのイエス様の言葉を聞いて、人々はどう思ったのでしょうか。聖書にはこのように書かれています。「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。「権威」という言葉があります。日本語ではあまりいい意味で使われないこともある言葉です。その意味を調べてみると、二つ書かれていました。一つは、「他の者を服従させる威力」。そしてもう一つが、「ある分野において優れたものとして信頼されていること」という意味です。律法学者は自分の先生の権威を利用して、聞いている人々を力で服従させるような語り方をしたのでしょう。しかしイエス様は、神さまの愛を自ら伝える者として語られました。その結果、人々から信頼を受けられたのです。

 合わせてその信頼の元になった出来事があります。それが今日書かれたもう一つの物語、「汚れた霊に取りつかれた男」の物語です。会同に汚れた霊に取りつかれた男がいました。その男がイエス様に向かって叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。さてここで、押さえておきたい言葉があります。それは、「けがれた」という言葉です。フリガナが振られていないとついつい「よごれた」と読んでしまいそうですが、これは「けがれ」、日本の宗教の中でも用いられる、宗教的な言葉です。

 「けがれ」とは、罪を犯したり、ある種の病気になったり、触れてはいけないものに触ってしまったり、また出産のあとなどにも「けがれ」という状態になります。聖書に出てくる「重い皮膚病」というものにかかった人も、「けがれ」た状態になります。「けがれ」から回復するには神殿でいけにえをささげたり、清い生活を一定期間過ごしたり、様々なことをしなければなりません。またそのようなことをしても「けがれ」のままでい続けないといけないこともあります。そしてその「けがれた」人は、共同体から排除されていくのです。なぜ排除されるのか、それは汚れた人と交わったり、一緒に食事をしたりしたら、その人まで汚れてしまうからです。特に神殿や会堂で仕事をしている人にとっては、遠くに避けてしまいたい存在なのです。

 ところがイエス様は、「かまわないでくれ」と言う汚れた霊に取りつかれた男に、かまいます。関わっていくのです。「黙れ。この人から出て行け」と汚れた霊を叱り、その男の人の中から出て行かせたのです。イエス様も会堂で教える身ですから、汚れた霊と関わることは常識的にはありえないことでした。しかも安息日です。身を清くしたままでいたいと、考えていても仕方ありません。少なくとも律法学者たちは、そうでした。汚れた霊に悩まされている人と関わることなど絶対にせず、自分たちだけ清ければよいと考える。

 「権威ある新しい教え」、それはイエス様の、この行動でした。いや、今回だけではありません。これから先、聖書はイエス様が、それまで宗教指導者たちが無視し、排除し、社会の片隅に追いやっていたような人たちと共に歩む姿を描きます。

 イエス様は、ご自分が清い、汚れているなどどうでもよいのです。今、苦しんでいる人がいればその人たちの手を取り、今、泣いている人がいればその人たちを抱き寄せ、今、希望を見失っている人がいればその人たちをおぶって歩かれるのです。

 今年の一月一日、能登半島で大きな地震が発生しました。まもなく一か月になろうとしていますが、いまだ断水の地域や道路が寸断されて孤立状態にある場所もあります。この前の火曜から木曜まで、福井県で教役者会がおこなわれました。その二日目に大雪にみまわれ、交通網がめちゃくちゃになり、身動きが取れなくなりました。暖かい場所にいてもこんなに怖い思いをするわけです。避難所や車の中で過ごしている方々の不安は、ものすごいものがあるでしょう。教役者会の中でも、わたしたちは一体何ができるのか、話し合ってまいりました。

 まず、祈り続けることがとても大事なのだと思います。祈りを通して心を向け、そしていま悲しみや苦しみの中にある人たちを心にいつも覚え続ける。祈ることしかできないわたしたち、ではないのです。祈ることが許され、祈ることによって支えていくことができるわたしたちなのです。

 そしてその祈りの先には、今、一番必要としている人たちのそばにいてくださるイエス様の存在があります。律法学者のようではなく、人々の間に身を置き、共に歩んでくださるイエス様の姿があります。

 そのことを信じて、祈り続けてまいりましょう。そしてわたしたちもまた、イエス様と共に何ができるのか、祈り求めていきたいと思います。