2024年3月31日<復活日>説教

「恐ろしかった」

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 マルコによる福音書16章1~8節

 主のご復活、おめでとうございます。世界のキリスト教では、復活日が一番大きなお祭りですが、日本ではクリスマスの方がメジャーなようです。そこには大きく二つの理由があると思います。一つは、毎年復活日は日にちが変わるということ。そしてもう一つは、「復活」という出来事を身近に経験していないということ。「降誕」という出来事自体は、わたしたちは身近に感じることができるし、どういうことが起こったのかも理解できます。それでは復活はどうでしょうか。どう説明したらよいのか分からないのが正直なところです。ゾンビ映画のようにお墓から手がニョキっと出てきて、というのが復活でしょうか。そのような死人の甦りを想像してしまいますが、聖書を読むとそうでもなさそうです。

 今年の復活日には、マルコによる福音書が読まれました。この場面を、簡単に振り返ってみましょう。今日の箇所の前、イエス様は十字架上で息を引き取りました。それは金曜日の午後3時のことでした。日没になると安息日が始まるので、その前に急いでイエス様のご遺体をお墓に葬りました。金曜日の日没から安息日が始まり、土曜日まで続きます。そして日没の時間になって安息日が終わると、3人の女性たちはイエス様に塗るための香料を買います。これが土曜日の夜でした。

 そして週の初めの日の朝、つまり日曜日の朝です。日が昇るやいなや、女性たちは墓に行きます。安息日には長い距離を歩いてはいけないという決まりがあったので、土曜日にはお墓に行きたくても行くことができなかったのです。ただ気がかりは、お墓の前に置いてあった大きな石の存在です。当時のユダヤのお墓は岩場などにできている空間を利用していたようです。そこに遺体を入れます。ただそれだけだと動物に食べられたり、盗賊に奪われたりする恐れがあるため、その入り口には簡単に動かすことのできないような大きな石を置き、ふさいでいたのです。

 しかし彼女たちがお墓に行くと、墓の入り口にあったはずの非常に大きな石はわきへ転がしてありました。一体だれが動かしたのだろう、彼女たちは不安になりながらも、お墓の中に入っていきます。お墓に入ると、そこには白い長い衣を着た若者が座っていました。彼女たちはそれを見て、ひどく驚きます。しかしそんな彼女たちに対し、その若者は言うのです。「驚くことはない。イエス様は復活なさってここにはおられない」。

 これが2000年前の最初の復活日の朝、3人の女性たちに対して起こった出来事です。今日わたしたちは、朝から「復活日おめでとう」と言い合い、この礼拝後には祝会をおこなおうとしています。喜びであふれているわけです。それでは、2000年前の女性たちはどうだったでしょうか。十字架の上で息を引き取ったはずのイエス様が、ご復活なさったのです。その喜びに満たされて、弟子たちの元に戻ったでしょうか。「さあ、みんなで早く、ガリラヤに行きましょう!そこで復活のイエス様にお会いしましょう!」と伝えたでしょうか。聖書は、このように書きます。「彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。恐ろしかったと書かれているのです。そこには喜びなどありません。

 最初の復活の朝、その場に居合わせた女性たちは、喜びとはまったくかけ離れた感情、恐ろしかったという思いを抱きます。一体なにが、彼女たちは恐ろしかったというのでしょうか。

 それは、これまで自分が経験したことのない出来事を、目の当たりにしたからでしょう。「復活」という出来事を経験していないこともそうですし、そのようなことを聞いたことなどなかったからです。もう一つ付け加えるなら、神さまが自分にも関わろうとしている。そのことに対しても、恐ろしさを覚えたのではないでしょうか。そして彼女たちは、お墓の前から逃げ出してしまったのです。

 マルコ福音書は、4つの福音書の中で最初に書かれたと言われます。そしてそのマルコ福音書は、「恐ろしかったからである」という言葉で終わっていました。あえて、その先の物語を載せなかったのです。来週以降読まれていくルカやヨハネ福音書には、復活のイエス様との出会いが書かれた記事があります。

 しかしそれはあくまでも2000年前の人たちが、体験した出来事です。扉を閉めた部屋の真ん中にイエス様が来て下さったり、「わたしの手やわき腹に指を入れてみなさい」と言って下さったり、一緒にエマオまで歩いてパンを裂いてくださったり、漁が終わるのを海岸で待ち魚をむしゃむしゃ食べられたり。

 でもそのような印象的な、驚くべき出逢いでなかったとしても、神さまはわたしたちに、復活のイエス様との出会いの場面を用意してくださっているのです。悲しくて涙を流しているときに、ふと温かいものを感じた。辛くて苦しくて立ち上がれなくなったときに、そばで支えてくれる存在を感じた。

 わたしたちは人生の中で、何度も何度も、暗闇に落とされます。それはいわば、2000年前に3人の女性たちが目にした「空の墓」と同じです。そのたびにわたしたちは、恐ろしくなって叫び、逃げ出してしまうのです。神さまは、そんなわたしたちの姿を、何よりもご存じなのです。そしてわたしたちを愛するがゆえに、その愛する独り子であるイエス様を、特別な形でお与えになりました。

 神さまはイエス様を、この世に遣わされます。そして十字架の死によって、わたしたちの罪をイエス様に背負わされ、その罪を贖われました。さらにわたしたち一人一人が歩んでいけるためにイエス様を死の中から起き上がらせ、わたしたちと出会わせてくださいます。「空の墓」は、その約束の象徴なのです。

 今日、この場にいる方の中には、復活のイエス様との出会いと言われてもピンと来ないという方もおられるでしょう。そもそもイエス様がそばにいるなんて信じられないと思っている方もおられるかもしれません。それでいいと思います。でも神さまは、そんなあなたのためにもイエス様を遣わしてくださいました。そしてイエス様は十字架の死を超え、わたしたちのために墓からいなくなってくださったのです。

 一つの墓にはとどまられない。それはどこにでも行けるということの裏返しです。場所を超えて、時代を超えて、わたしたちを導いてくださる方がおられるということ、神さまの愛がその方を通して、わたしたちに注がれ続けていることを心に受け止めたいと思います。

 2000年前に恐ろしさの中で始まった復活の出来事は今、わたしたち一人一人にそれぞれの物語として、続けられています。そのことを信じて、復活の喜びを共に分かち合いましょう。

 主の復活、おめでとうございます。