2020年4月5日 <復活前主日> 説教

「だれが十字架につけた」

マタイによる福音書27章1~54節

 わたしたちは今、たくさんの不安を抱えています。それぞれお一人お一人、その思いは違うでしょう。しかしその中でも、それは連日報道されている新型コロナウイルスに対する恐怖は大きいのではないでしょうか。

 世界のいたるところで爆発的な感染者増がみられ、また日本のあちこちでもクラスターと呼ばれる集団感染が確認されています。その影響もあり、多くの教区が礼拝を休止し、陪餐のやり方を工夫しています。なぜここまでわたしたちが神経質になるのでしょうか。それはひとえに先が見えないからかもしれません。

 先ほど、イエス様の受難が朗読されました。また聖餐式に先立ち、棕櫚の行進がおこなわれました。わたしが聖書を読み始めて間もないころ、不思議でたまらなかったことがあります。それは今日、棕櫚の葉を手に、「ホサナ、ホサナ」とイエス様を迎え入れていた人たちが、一週間もたたないうちに、「十字架につけろ」と叫んだ。そのことです。

 人々が「ホサナ、ホサナ」とエルサレムに入るイエス様を迎えた理由は何だったのでしょうか。今の苦しみから解き放たれるため。自由になりたいため。憎むべき敵を蹴散らしてもらうため。「自分たちの」王として自分たちに関わってもらうため。

 時折、お祈りをしていて、不安に思うことがあります。本当にこのお祈りって、聞かれるのだろうかと。というのも、お祈りの後に気づくからです。お祈りの中に、「わたしの」、「わたしは」、「わたしに」という言葉が多いことに。「わたし」のお祈りばかりする自分と、「ホサナ、ホサナ」と叫ぶ群衆のどこが違うのでしょうか。「わたし」の祈りが、「わたし」の思い通りにならなかったときに、「十字架につけろ」と怒鳴り散らす群衆が、自分の姿に重なり合ってしまうのです。

 今年、わたしたちは様々なことに心を動かされながら、聖週を迎えていきます。神さまはどうしてわたしたちに、このような重荷を背負わせられるのでしょう。どうして多くの人に、大きな試練を与えられるのでしょう。答えはわかりません。

 しかしその中で、わたしたちはいろんなことを考えたと思います。陪餐ってなんだろう。礼拝って何のために行くのだろう。当たり前のことが当たり前にできなくなる。そんなときに、わたしたちはようやく神さまのみ恵みに気付くのです。

わたしたちには、神さまが必要なのです。イエス様がいてくださらないと困るのです。自分勝手で、弱く、すぐにくじけ、神さまに背いてばかりいる。自分の願いが聞き入れないと気付いたときに、「十字架につけろ」と言ってします。その声は、わたしたちが発する声です。でも、だからこそ、不完全でどうしようもない一人一人のためにイエス様は十字架に向かわれたのです。そして復活の希望をわたしたちに与えてくださったのです。  そのことをご一緒に待ち望みたいと思います。この一週間、イエス様の十字架を見つめ、そして復活の喜びに導かれることができますように、お祈りいたします。