2021年1月3日<降誕後第2主日>説教

「わたしたちの贈り物」

YouTube動画はこちらから

マタイによる福音書2章1~12節

 今日読まれた聖書の箇所は、マタイによる福音書2章1節から12節、東方の占星術の学者がイエス様の元を訪ねて贈り物をささげるという場面です。黄金、乳香、没薬という三つの贈り物をささげる、そのようなところです。幼稚園のページェントでは、「3人の博士」と名前を付けられた彼らは、羊飼いの話を聞いて驚いているマリアやヨセフの元に来て、うやうやしく贈り物をささげます。そして全員がそろったところで、「クリスマスおめでとう!」ということになるのです。いわゆる全員そろってエンディングを迎えるわけですが、聖書の語るクリスマス物語は、実は結構時間がかかっていました。

 彼らは教会暦では、1月6日の顕現日にようやく幼子のところにたどり着いたということになっています。降誕日から10日以上経っています。随分時間がかかったのだと思いますが、それには二つ、理由がありました。一つは彼らが東方、東の遠い国からやってきたということ、もう一つは彼らがヘロデ王のところに寄り道をしてしまったということです。

 東方というのはどこなのか。詳しい地名は書いてありません。一つ言えることは、ユダヤではない遠い場所だったのだろうということです。遠いから、すぐに駆け付けることができなかったのです。そこにはどのような意味があるのでしょうか。

 聖書を通して神さまがわたしたちに伝えているのは、イエス様を通してわたしたちを救おうとされる神さまの思いです。神さまがわたしたちを愛し、大切に思っているからこそ、神さまは独り子を世にお遣わしになりました。

 でも2000年前、ユダヤの人々は、特に宗教指導者たちは、救い主は自分たちの元にだけやってくると信じていました。もっとはっきり言うと、自分たちのように神さまの言いつけを守り、毎日ちゃんと暮らしている。律法を守り、献金をし、必要な犠牲をささげ、決められた時間にお祈りをする。

 そのような自分たち正しいユダヤ人の元に、神さまは目を掛け、手を伸ばし、救いに招かれるのだと考えていたのです。逆にそうできない人たちに待っているのは滅びだと。でももしそうであったとすれば、わたしたちは神さまとは遠く離れてしまうでしょう。そしてわたしたちの元にはイエス様は来て下さらないことになります。考えてみてください。わたしたちは毎日正しく生きているでしょうか。一点も曇りもなく、神さまの前に胸を張って立てる、そんな一人一人でしょうか。

 わたしたちは自分の力だけでは、決して神さまの前に進むことのできない者です。しかし聖書は伝えます。神さまが、そのような小さな人に目を向けたという出来事を。貧しい羊飼いに喜びの知らせを真っ先に伝え、そして東方という異邦の地に住む博士を招かれたのです。

 博士たちにとって、その知らせは驚くべきものだったことでしょう。その内容よりも、どうして自分たちにその知らせが聞かされたのか。ユダヤ人ではない自分たちの元に、神さまはどうしてその知らせを届けられたのか。

 彼らの驚き、それは自分たちが外国人、いわゆる聖書がいう異邦人であることということ以外にもありました。彼らは占星術の学者だと書かれています。簡単にいうと、占い師です。聖書では彼らの職業は否定されています。そのような人のところになぜ、神さまの喜びの知らせが届けられたのでしょうか。

 羊飼い、そして外国の占い師。ユダヤ人から彼らは差別され、救いの枠組みからは外れていると考えられていた、そんな彼らに神さまは真っ先に手を伸ばされたのです。そのことをわたしたちは喜びとして捉えることができるかどうかが、とても大事なことなのです。

 教会にいることが一種の既得権益のようになっており、自分たちに神さまが手を差し伸べるのは当然だ、教会の外には救いはないと考えているのだとしたら、わたしたちもまた2000年前のユダヤの人たちと同じように、イエス様の誕生を受け入れることができないのかもしれません。

 それどころか幼子を虐殺したヘロデ大王のように、恐れを怒りに変えてしまう。不安のあまりに恐ろしい行動に出てしまう。自分に都合の良い救い主でなければ受け入れられない、そのようになってしまうのかもしれません。

 神さまからの救いのメッセージ、それはわたしたちにも、そしてわたしたちの周りにいる人にも、教会の前の商店街を歩いている人にも、神さまのことを知らない多くの人にも、すべての人たちに与えられているものです。東方の占星術の学者に知らせられたということは、世界中の人にその喜びの知らせが届けられるというメッセージなのです。

 東の国の博士たち、贈り物を携えて、赤ちゃんイエス様の元にやってきました。黄金、乳香、没薬、お金と油と薬です。とても高価なものでしょう。わたしは実は、いつもここが引っかかっていました。イエス様の元に行くためには、そんな高価な贈り物が必要なのかと。そんなのわたしは持っていないと。

 でも先日、ある本を読んでいると、なるほどと思わされました。黄金は生活に必要なものです。そして乳香と没薬は、彼ら博士が占いをするときに使っていたのではないかというのです。

 生活に必要なお金を手放し、生計を立てるのに必要な乳香と没薬もささげた。そこに意味があるのです。彼らはイエス様の前で、これからは神さまだけを頼って生きる、神さまにすべてを委ねて生きることを誓ったのではないかというのです。

 そんなことは聖書のどこにも書かれていませんし、また彼ら博士たちがその後どうやって生きていったのかも書かれていません。しかしイエス様に出会った彼らがそのように変えられたのだとしたら、何だかうれしく感じます。

 そしてわたしたち一人一人も、この博士たちのように、イエス様に出会い、おささげしていきたいと思います。ある幼稚園では、博士たちが3つの贈り物をささげたその後に、こんな歌を歌います。

 3人の博士が、「大事な大事なこがねです」「大事な大事な油です」「大事な大事な薬です」と歌った後に、みんなで歌います。

 「わたしも僕も、イエス様に、おささげしましょう この心」

 わたしたちはイエス様の元に招かれました。わたしたちも自分自身をおささげして、共に歩む一年となりますよう、お祈りいたします。