2024年6月2日<聖霊降臨後第2主日(特定4)>説教

「神さまのおきて」

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 マルコによる福音書2章23~28節

 さて、今日の福音書の物語はマルコ福音書に書かれた、いわゆる「安息日論争」と呼ばれるものです。しかし安息日といっても、わたしたちの感覚ではあまり身近とは思えない、というよりも普段の生活の中ではあまり関係ないものです。安息日の決まりは、旧約聖書の中で神さまがモーセに与えた十戒の中に書かれていました。今日の旧約聖書では申命記5章6節から21節が読まれましたが、その中にこのような内容が書かれています。

 創世記の最初にある天地創造において、神さまは1日目の「光あれ」という言葉から始めて、2日目には大空を、3日目には草や木を、4日目には太陽と星を、5日目には魚たちを、そして6日目には動物たちと人間を造られました。そして6日目が終わったときに、神さまは「とても良い」と満足され、その次の日、7日目の日は安息された、つまり休まれました。「主の安息日」とはそういうことであり、だからあなたがたも仕事をしてはならないと言われるのです。

 ではその安息日に、仕事をしてはいけないのは誰でしょう。それは自分たちだけではありません。子どもたちはもとより、奴隷も、家畜も、そして町に来ている外国人に至るまで、みんな仕事をさせてはいけないのです。それには理由がありました。

 神さまはイスラエルの人たちに、自分たちが奴隷としてエジプトで苦しんでいたことを思い出しなさいと言うんですね。あなたたちも毎日、働かされていただろう。休みなく、重労働に苦しめられていただろう。それと同じことを他の人にしてはいけない。ちゃんと休ませてあげなさいね、というのがこの決まりだったのです。

 さてある安息日のことでした。イエス様は弟子たちを連れて、麦畑を通って歩かれていかれました。そのときに弟子たちは、歩きながら麦の穂を摘み始めたそうです。その様子を見ていたファリサイ派の人たちが、非難を始めました。

 弟子たちは農家ではありませんでしたから、その麦畑は誰か知らない人の所有物です。ですから人の物を勝手にとったから、ファリサイ派は「ダメだ」と怒っていたのでしょうか。そうではありません。実は旧約聖書には、畑の端っこに生えている農作物は貧しい人や旅行者のために残しておきなさいという決まりがあります。ですから弟子たちが勝手に人の畑から麦の穂を取ったこと、そのこと自体は許される行為なのです。では何がダメなのでしょうか。「安息日にしてはならないこと」とは、一体何を指していたのでしょうか。

 ユダヤ教には、安息日にはしてはいけないことリストというものがありました。「仕事をしてはいけない」と神さまが命じられたので、彼らは考えたわけです。では一体、何が仕事に当たるのかと。たとえば歩く距離。日常生活をおこなう中で、まったく歩かないというわけにもいかないと彼らは考えます。そこで何歩だったらOKという基準を打ち出すわけです。保存していた食べ物を食べるのはいいけれども、火をおこして調理をしたらダメ、それは労働だからと考えるのです。

 そして今回の場面、弟子たちは麦の穂をちぎって、それをもみほぐし、食べようとしました。その行為は、「収穫」なのです。それは立派な仕事になるのだと、その様子を見ていたファリサイ派の人たちは指摘するのです。たとえば礼拝堂の前に、サクランボがなる木があります。毎年ゴールデンウィーク前後に実をつけ、食べることができます。ただ今年はいつの間にかなくなっていて、残念ながらわたしは一つも食べることができませんでしたが。さてその実をつまんで口にほおばること、これって仕事でしょうか。普通、常識的に考えて、そんなことを仕事とは呼ばないのです。でもファリサイ派の人たちは、それを仕事と考えた。そこにはどんな理由があるのでしょうか。

 このファリサイ派の人たち、聖書にはよく登場しますが、彼らはとても真面目な人たちでした。真面目なあまり、神さまが与えられた戒めをきちんと守ろうとしました。自分の力で、何とかすべての決まりを守る。そしてそれを、他の人にも強要していきました。大体今日の場面、安息日であまりウロウロできないはずなのに、麦畑でイエス様や弟子たちの行動を見ているのって、違和感ないでしょうか。彼らは監視していたのです。ちゃんと決まり通りに行動しているのか、それをじっと見ていたのです。わたしたちにも覚えはないでしょうか。これはこうするべきだ。その考えを元に否定したり、排除したり。

 先週、わたしたちの教会では「こどもとともにささげる礼拝」というものをおこないました。子どもたちと共に喜びの礼拝をささげるにはどうしたらいいか。東京の教会ですでにおこなっておられることを参考にしながら、副牧師が中心となって準備しました。読まれる聖書、歌、子どもたちによって分かちあわれるパン。いつもとは違う礼拝でした。でもいろんな方からのご感想を聞くと、とても喜びにあふれたものになったということでした。残念ながらわたしは他の教会におりましたが、次はご一緒したいと思います。もしその中で、「礼拝はこうでなければならない」、「聖餐式というのは」というような話が出たり、「そもそも聖書の時代、子どもは礼拝の手伝いなんかしなかったはずだ」なんてことになっていたら、どうなっていたのでしょう。「なぜ彼らは礼拝の中で、してはならないことをするのか」となってしまい、とても悲しいことになっていたでしょう。

 イエス様はファリサイ派の指摘に対して、こう答えました。「安息日は、人のために定められた」と。前半でお話ししたように、安息日は人々に休息を与えるため、それもすべての人と家畜に休息を与えるためのものです。人を縛り付けるものではありません。神さまが様々なことを伝えられる一番の目的は、わたしたちに本当の命を与えることです。わたしたちを愛し、生かすことです。だからわたしたちも人を否定し、排除していくのではなく、お互いの存在を大切にし、共に喜びを分かち合っていくのです。そしてそこには神さまの大きな愛があるということを、わたしたちは覚えていきたいと思います。

 安息日に代表される旧約聖書の決まりを、イエス様はやみくもに破っていったわけではありません。神さまの本当の思いは何なのかを伝えてこられました。そしてわたしたちにはこの出来事を通して、神さまの愛をどのように理解していくべきなのか。そのことを問われているように思います。聖公会は伝統に縛られず、考え続けていく教会だと言われます。礼拝に限らず様々な場面で、わたしたちは神さまの思いを感じ、考えていく必要があるのでしょう。そして神さまの福音を伝えるためにどうしていけばよいのか、問い続けていくことが出来ればと思います。

 神さまはわたしたちを生かすために、イエス様をお遣わしになりました。そのことをいつも心に留め、歩んでいきましょう。