2023年6月4日<三位一体主日・聖霊降臨後第1主日>説教

「わたしたちの宣教」

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 マタイによる福音書28章16~20節

 神さまはどうしてわたしたち人間をおつくりになったのでしょう。今日読まれた旧約聖書は、天地創造の物語です。神さまはどのような思いで世界をつくられたのかということが書かれています。

 神さまが発した最初の一言は、「光あれ」でした。そして神さまは、次々と創造の業を続けていきます。二日目には大空をつくられ、三日目には陸地と海とを分けられました。さらに四日目には太陽と月を、五日目には魚と鳥をつくられます。そして六日目に、神さまは動物たちを作り、最後に人間をつくられます。神さまの思いは、この言葉にあらわされています。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」。そして聖書はこう締めます。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」。

 さて、日本聖公会では今日を、「地球環境のために祈る日」と定めています。森林伐採やオゾン層の破壊など、わたしたちの周りには避けて通ることのできない「環境問題」が多く存在します。

 実はそれらの環境問題、この聖書の箇所が原因の一端を担っているとも言われています。というのも、「支配せよ」という意味を取り違えて、勝手に自分たちの都合のいいように解釈してきた歴史があるからです。支配という言葉は、何か上から押さえつける、そのような印象を持つものです。

 地球には様々な資源があります。神さまがつくられた草木や魚、鳥、動物などなど。それらのものを、「人間は地球の支配者なのだ」という感覚で、無計画に、無尽蔵に消費していく。それが本当に、神さまの望まれた世界だったのでしょうか。神さまは人間に対し、好き勝手していいよという意味で、植物や生き物を支配せよと命じられたのでしょうか。新しい聖書になって、この「支配せよ」という言葉は「治めよ」という訳に変えられました。しかしもっときちんと意味を捉えるなら、「管理」という言葉が一番妥当ではないかと思います。管理と言っても、上から押し付けるのではなく、良い羊飼いが羊を飼う、イエス様がたとえで話されたことと同じような感じです。

 「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」、それこそが、本当の管理なのだと思います。羊飼いが生き延びるために羊を犠牲にするのではなく、羊を生かすために自分は何をすべきなのか、考え行動することが大事なのです。

 神さまが6日目に人間をつくられたあと、最後に聖書はこう書きます。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」。「極めて良かった」、パーフェクトな世界だったのです。そして7日目には、神さまは安息されます。すべての創造の仕事を離れられたということは、もう手を入れることはないと思われたのです。しかし神さまの思いとは裏腹に、わたしたち人間は被造物を破壊し、自分の欲求を満たすために様々なものを傷つけてきました。自分勝手に生きていくわたしたちを見て神さまは嘆き、一つの決断を下されます。

 その決断とはわたしたちを滅ぼすというものではなく、わたしたちを救うために、生かすためにはどうしたらよいかということでした。そして神さまが考え、なさったのが、イエス様をわたしたちの元に遣わすことでした。さらに十字架での死、復活、昇天を経て、聖霊を降臨させた、そういうことなのです。

 その神さま、イエス様、聖霊がわたしたちに関わることが、神さまのみ心です。神さまは本当の意味で、わたしたちが管理者、もっと平たく言えば、すべての被造物と共に歩む、そのような一人ひとりになることを望んで、三位一体という不思議な形で寄り添ってくださるのです。さて、それでは聖霊に満たされたわたしたちは、どのように押し出されていくのでしょうか。今日読まれた福音書は、マタイ28章16節から20節、マタイ福音書の最後の部分になります。そこにはこのように書かれています。

 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 先ほどの創世記の「支配する」と同様、この箇所もずい分誤解されてきました。「弟子にしなさい」、「教えなさい」というイエス様の命令を実行するために、自分たちが誰かの上に立たなければならないと勘違いしてきました。ヨーロッパの植民地政策もそうでしょうし、日本でのキリスト教の布教もそうだったでしょう。「あなたたちは無知だから、正しいことを教えてあげよう」、「本当に正しいことが何なのか、君たちに知らせてあげよう」。被造物を支配することと同じように、誰かを変えて行くことが宣教だと考え、歩んできたのが教会の歴史です。でも神さまのみ心は、そうではないんですね。共に歩みなさい。共に生きていきなさい。上から神さまのことを知らせるのではなく、下から人々に仕えていく、それがわたしたちに求められていることなのです。

 コロナも5類になり、教会の見学者も増えてきました。先日も大学の先生が学生たちを連れて来られました。わたしが見学の対応をするときに、必ず伝えることがあります。それはこの礼拝堂は、自分を強調するのではなく周りに同化しているのだということです。時代背景もあったでしょうが、外観からではキリスト教の建物とはわからないこの礼拝堂は、わたしたちの教会が他者に対して優位に立ったり、他者を排除したり、他者を批判するようなものではないということを伝えてくれます。周りの環境を受け入れ、共に生きていく、それがこの礼拝堂であり、またわたしたち教会に集う一人ひとりが大切にすべきことなのです。そしてこれこそが、わたしたちの宣教であり、神さまがわたしたちに求められていることなのです。イエス様の弟子とする、それはわたしたちと一緒に食卓を囲む人を、招くということなのかもしれません。

 イエス様が命じられたことを守る、それは自分の力に頼ることなく、神さまにお委ねすればいいんだということを、伝える。わたしたちがその言葉で歩く力を得たように、一人でも多くの人が暗闇の中で光を見出し、歩むことができる。その手助けをすることが、宣教なのです。自分の力だけでは難しいことでも、神さまはあらゆる方法でわたしたちに寄り添い、導いてくださいます。三位一体、頭で理解しようとしても、なかなか難しいことです。でも、感じましょう。聖霊の導きを感じ、神さまの愛を信じ、イエス様の執り成しを覚え、歩んでいくことが出きればと思います。そして神さまの宣教の業に参与する、わたしたちにできることは何なのか、与えられた賜物は何だろうか、共に考えることができればと思います。