2024年2月4日<顕現後第5主日>説教

「イエス様の思い」

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 マルコによる福音書1章29~39節

 いやしや悪霊払いという聖書の記述を文字通り読むと、わたしたちとは何か遠く離れた物語だと思ってしまうのも正直なところです。みなさんは風邪を引かれたら、どうするでしょうか。薬局で風邪薬を買って飲むか、病院に行かれるのではないでしょうか。間違っても、教会には来られないと思います。

 また悪霊に取りつかれたらどうするのか。現代の教会がそのような方々の受け入れ先になっているかというと、「そうです」とはなかなか言い切れません。お祈りをすることはできますし、お話をすることもできます。でもイエス様のように悪霊を追い出せるのかというと、そのような経験も自信もないというのが正直なところです。

 であれば、今日の箇所に書かれていることは、わたしたちに何を伝えているのでしょうか。単なる2000年前の昔話でしょうか。

 先ほど、「わたしたちは風邪を引いたらどうするのか」という問いかけをしました。わたしたちは風邪を引いたら、薬を飲んだり、病院に行ったりします。では当時の人たちは、どうだったのでしょうか。現代のように、医療が発達し、病気の原因がわかっているような状況ではありません。何をどうしたら治せるのか、正確に診療し、医療をおこなうことができる医者も、そんなにはいませんでした。またお金を払って医者にかかれる人も、どれだけいたでしょうか。そして何よりも、病気になったり悪霊に取りつかれたりするのは何故か、当時の人たちはこのように考えていました。「それは自業自得だろう」と。日本にも、「因果応報」という言葉があります。もともと仏教用語だそうですが、「人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」ということだそうです。

 当時のイスラエルにも、同じような考え方がありました。神さまの祝福は、目に見える形で与えられると思われていたのです。神さまの祝福は、長寿と健康、財産を得ること、そして子孫が与えられることとされていました。それらはすべて、神さまからのお恵みだと信じられていたのです。

 それはそれでいいと思います。でもそこで問題になっていくのは、その恵みを与えられなかった人たちです。すなわち、若くして亡くなったり、病気になったり、貧しかったり、子どもに恵まれなかったり、それらの人たちは、人々からどう思われていたのか。彼らは、神さまに対して罪を犯したのだ。彼らの罪じゃなかったとしても、その両親が罪を犯したに違いない。そうやって後ろ指をさし、自分たちの共同体から排除していくわけです。そして自分たち自身も、きっとどこかで犯した罪のせいで、このような状況に陥ったのだとあきらめてしまっていたのです。

 罪を犯したということであれば、その罪を赦してもらわないといけません。旧約聖書には罪を犯したときにはどうしたらいいか、様々な決まりが細かく定められています。簡単にいうと、どういういけにえを献げたら赦されるのか、そのようなことです。しかし神殿に行こうにも、共同体から排除されたような彼らが行けるような場所ではありませんでした。距離も遠いし、歩くのすらままならないような人もいます。でも助けてももらえない。そんな彼らにとって、神殿は物理的な距離以上に遠い場所でした。さらにたとえ神殿に行きついたとしても、罪人、異邦人、女性などは、中には入れてもらえませんでした。つまり罪の赦しを得ようとしても、その場所にたどり着くことができなかった、ということなのです。

 わたしたちは降誕物語から始まり、顕現、神さまの恵みが人々に現わされる、そのような物語に聞いています。実はこれらの物語に共通していたこと、そしてわたしたちにとってとても大事なことは、その恵みがいったい誰に現わされたのかということなのです。

 イエス様の誕生の知らせを一番に聞いたのは、羊飼いたちでした。安息日を守ることができず、人々からは汚れた者として排除されていた羊飼いたちのもとに、神さまの恵みである喜びの知らせが真っ先にもたらされたのです。

 次に喜びの知らせがもたらされたのは、東方の博士たちでした。彼らはユダヤ人ではなく、異邦人でした。救いはユダヤ人の元にのみもたらされる。誰もがそう疑わなかったときに、神さまはそうではない、すべての人が救われるのだと示されました。

 洗礼者ヨハネもそうです。彼は荒れ野で叫び、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。荒れ野も、ヨルダン川も、誰でも行ける場所です。神殿のように、行くのが困難な、敷居の高い場所ではありません。洗礼者ヨハネは、そこで活動しました。

 そしてイエス様です。イエス様はカファルナウムという場所で宣教を始めます。田舎の漁師町であるカファルナウム。そこに住む人たちにはいろんな人がいたことでしょう。安息日に会堂で祈ることができる人もいました。その中には汚れた霊に取りつかれた人もいたようです。でもそれ以上に、安息日に会堂に行くことさえも許されていない人たちも、多くいたのだと思います。罪人、病人、宗教的に汚れた人、徴税人、娼婦。本当は一番神さまを必要とし、本当であれば一番祈りを必要としていたような人たちが、安息日に会堂に入ることができず、暗闇で途方に暮れていた現実がそこにはあったのです。

 そのような中、彼らはイエス様のうわさを聞きます。「権威ある新しい教え」は、エルサレムの宗教指導者に向けられているのではない。裕福な人や恵まれている人、神さまの祝福が与えられていると思われた人だけのものではない。自分たち一人ひとり、本当に神さまを求めている一人ひとりに向けられているのだということを聞くのです。

 彼らはいてもたってもおれませんでした。そして彼らは、戸口に集まったのです。その光景を見て、イエス様は祈ります。神さまのみ心をそこで確認されたのでしょう。そしてイエス様は決断されます。「近くのほかの町や村へ行こう」。さらに続けられます。「そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」。これが神さまの思いであり、イエス様がこの世に遣わされた意味なのです。今、必要としている人のところに行く。神さまの恵みが、本当に神さまを求めている人のところに注がれる、これがわたしたちに与えられた顕現の物語なのです。

 今日、聖書を通して示されたのは、2000年前の奇跡物語ではありません。神さまがすべての人に関わった物語、そしてそのみ手は今、この場にいるわたしたち、そしてわたしたちが祈るその先のお一人お一人に向けられていることを伝える生きた物語です。わたしたちはこの知らせを大事に受け取り、歩んで行きたいと思います。来週は大斎節前主日、もうまもなく大斎節が始まります。共に祈り、共に遣わされた場所で歩むわたしたちでありますように。