2019年9月15日〈聖霊降臨後第14主日〉説教

イエスの話を聞こうとした人たち
 ルカ15:1-7

  司祭 ヨハネ 井田 泉
  奈良基督教会にて

「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。」(ルカ15:1) 

今日はこの1節を心にとめたいと思います。

 少し舞台裏のことをお話しするのですが、わたしは2ヵ月から3ヵ月くらいの主日の特祷と聖書日課を先にまとめて読んで、そこから各主日の中心にしたい聖書の言葉を選び、合わせて仮の説教題を付けます。その聖書の言葉、また仮の説教題は、わたしの心に響いてきたものを選んでいるのですが、同時に教会や社会の現実を意識しています。気になっているだれかにこれを届けたいと思うこともあります。
  それが今日は、ルカ福音書の第15章1節の言葉だったのです。

「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。」

「話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」。これが気になったのです。わたしたちはどうなのだろうか。

 そのとき、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た人たちがいた。それはだれか。「徴税人や罪人」と書いてあります。
  「徴税人」。税金を取り立てる人です。税金は土地にかけ、人にかけます。それから税関では通行税を取ります。当時、そのお金はどこに行くのかというと、ローマ帝国に行きます。つまり徴税人は、ローマ帝国から仕事を請け負って同胞から税金を取り立てる。これは言わば民族の裏切り者です。しかも決まった額より多く取れば、それを自分の懐に入れることができる。徴税人にはこういう人が多かったようです。それですから、二重の意味で徴税人は憎まれ、軽蔑されていました。

 「罪人」はどうでしょうか。神から命じられたはずの掟を守っていない人たちです。掟、律法のおおもとは十戒です。その一つに「安息日を守れ」というのがあります。けれども生活していくためには安息日でも働かざるを得ない人たちが現実にはいます。しかもその後、律法は非常に細かくなって、何百という数になっていたそうです。そうすると、それを守れない人がいっそうたくさん出て来ます。そうした人たちは、神の掟を守らない「罪人だ」と決めつけられる。冷たい目で見られさげすまれて、自分でも負い目を感じて自分の価値を見出せなくなる。

「罪人」については、今お話ししたことに加えて、わたしはもう一つの人びとを含めたい。それは、良心の痛んでいる人たちです。何らかの負い目を心に持っていて、苦しみ続けている人たち。この人たちは神さまに安心して向き合うことができません。自分は赦されないのではないかという、人にも言えない苦しみを持ち続ける人たちもいたに違いありません。

 ところでイエスについてこういううわさが広がっていました。

「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(ルカ7:34)。

 イエスに対して悪意ある人たちが広げたうわさかもしれません。しかし、多くの人たちから嫌われ、軽蔑され、また心の痛みを抱えた人たちは、このイエスに希望を持った。「徴税人や罪人の仲間」であるその人なら、自分たちのことを分かってくれるのではないか。平穏に暮らしている人たちではありません。非難されて、重荷を抱えて、苦しんでいる人たちです。助けを、救いを必要としているのです。イエスに会ってみたい。その人の話を聞きたい。切実な思いです。
  それが今日の福音書の初めにつながります。

「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。」

 興味本位の人たちも、野次馬的な人たちもいたでしょう。それとは別に、折あらば口実をもうけてイエスを捕らえて殺そうと狙っている人たちもいます。そうした中に、ほんとうにイエスの話を聞きたくて、聞こうとして集まって来た人たちがいる。イエスの言葉を必要としている人たちがいます。その人たちは「イエスに近寄って来た」。遠巻きにしているのではないのです。少しでも近くに寄りたい。イエスを見たい。イエスの存在をじかに感じたい。全身でイエスの言葉を聞きたいのです。

 このとき、イエスは一つの譬えを話されました。

「4 あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6 家に帰り、友達や近所の人びとを呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」

 イエスは、神さまはこういう方だと言われました。99匹はほっておくのか、と言う人もいるかもしれない。しかしほんとうに救いを必要とする人たちは、自分がその失われた1匹であると感じるのです。この自分のことを神さまは見つけ出すまで捜し回ってくださる。わたしを見つけたら、この上なく喜んでくださる。肩に背負って連れて帰ってくださる。この自分のことを、捜し回るほどに価値ある存在として見てくださるのか。こんな話は聞いたことがなかった。このような神さまを教えてくれる方はほかにはなかった。

 わたしたちは徴税人ではなく、罪人でもないかもしれません。けれどもあの「徴税人や罪人の仲間」と呼ばれ、事実そうであったこのイエスの仲間、イエスの弟子でありたい。イエスの話を聞こうとして近寄るわたしたちでありたいと願います。イエスはわたしたちのことを探し、見出して喜んでくださる方なのですから。

 しかし、弟子の中でも、やがてイエスから離れ去る人たちもいました。自分たちの期待するようにはイエスはしてくれない。それに、受け入れがたいことをイエスが言われたからです。

「わたしは天から降(くだ)って来たパンである。」(ヨハネ6:41)
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、
  わたしもまたいつもその人の内にいる。」
(6:56)

 すると「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6:60)と言って離れ去る弟子たちも少なくありませんでした。
  イエスは残った少数の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と問われました。
 しかしペテロが答えて言いました。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハネ6:68)

 永遠の命の言葉、わたしたちを生かし導く言葉を持っておられるのはこの方イエスです。

 わたしたちがイエスの言葉を必要とし、イエスの命を必要としているのです。それなのにこの方は、ご自分がわたしたちを必要としているかのように、わたしたちを招き、わたしたちをご自分のもとにおらせようとされます。そしてご自分の命を与えようとされます。
 そうなのです。わたしたちはこのイエスを必要とし、同時にイエスはわたしたちを必要とされるのです。わたしたちをとおしてイエスが働かれるために。それですから、わたしたちはイエスから離れません。

 祈ります。
 主イエスさま、あなたはかつて徴税人や罪人の仲間と呼ばれました。その人びとはあなたの言葉を聞くことを切に求めました。わたしたちもあなたの言葉を必要としているのに、それが必要ではないかのようにしばしばそれを後回しにして過ごしています。けれどもあなたはわたしたちを招き、わたしたちを捕らえて、わたしたちをとおして働こうとしておられます。わたしたちのうちにあなたのみ言葉を求める思いを新しく与えてください。アーメン