2020年5月31日<聖霊降臨日>説教

「主の教会はただひとつ」

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使徒言行録2章1~11節、ヨハネによる福音書14章8~17節

 ようやく緊急事態宣言が全国で解除されました、4月19日の主日から奈良基督教会の礼拝は休止しておりましたが、いよいよ今日から教会の門は開かれ、ともに集うことができるようになりました。

 今日、わたしたちがひと月半ぶりに集められるこの日は、奇しくも聖霊降臨日です。なぜ「奇しくも」なのかといいますと、それは聖霊降臨日が「教会の誕生日」として覚えられる日だからです。みなさんは誕生日といいますと、どんなことをするでしょうか。誕生日なんてキライ!もう数十年前に忘れたわ!という方は、どうぞあまり気になさらないでください。現にわたし自身も誕生日がくるたびに、なんだか体のふしぶしが痛く感じてしまう、そんなあまりうれしくない思いをもっています。

 それはさておき、聖霊降臨日イコール教会の誕生日というわけですから、教会が生まれた日と言い換えたほうが分かりやすいかもしれません。教会が生まれた日、それだったら自分の誕生日を想像するのではなく、だれかかわいい赤ちゃんが生まれた日を思い起こすとよいと思います。

 赤ちゃんが生まれる前と後、そこには決定的な違いがあります。それは生まれる前には赤ちゃんは存在していなかったけれども、生まれた後には確かに赤ちゃんはいるということです。

 考えてみたら、当たり前のことです。しかしこの聖霊降臨日の出来事によって、教会の働きが始まったということを覚えたときに、わたしたちはどのようなことに気づかされるでしょうか。

 ヨハネによる福音書14章は、イエス様が弟子たちの足を洗われたのち、十字架につけられる前の最後のお説教の一部です。このようなことが書いてありました。

 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたを一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。

 この「別の弁護者」と呼ばれているもの、そして「真理の霊」と呼ばれているものが聖霊です。つまりここでイエス様は、ご自身が十字架につけられる前に弟子たちに向かって、あなたがたに聖霊を与えるよ、と約束された。そのことが書かれているのです。

 聖霊が与えられる。ともすると、これはきわめて個人的なことのようにも思えます。しかし使徒言行録の記事を見ると、そうではないようです。一同が一つになって集まっていると、と使徒言行録には書かれています。つまり一人一人に聖霊が与えられるのだからといって、個人的に祈っていたのではないんですね。みんなで集まり、さらに近くに大勢の人がいたわけです。

 ここでイエス様は弟子たちに、「あなたがた」と語られます。でも、そのあなたがたとは、弟子たちだけではないのです。弟子たちの向こうにいる人たち、場所も、そして時代をも超えたすべての人たちが、イエス様のまなざしの先にはいたのではないでしょうか。

 このひと月半、わたしたちはそれぞれの場所で、祈りました。お互いに顔を合わせることもなく、お互いの声を聞きあうこともなかったかもしれません。しかしどうでしょう。その中において、かえってお互いのことを身近に感じ、神さまの温かい温もりに気づかされたこともあったのではないでしょうか。たしかに違う場所にいました。祈る時間もまちまちだったことでしょう。今日だってそうです。わたしたちは目で見える中で、肉体や物質的に一つとなっているのかというと、そうではありません。しかし多くの人が感じているはずです。わたしたちは一つだと。

 ちょっとだけ、使徒言行録の場面を想像してみましょう。祈っている弟子たちの頭の上に、炎のような舌が現れたというのです。頭の上をペロペロ舐め回していたのでしょうか。それはともかく、彼ら弟子たちに起こったのは、こんな出来事です。

 一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。

 なんだかマジックのような不思議なことです。続けて聖書に書かれているのは、あらゆる場所から人々が集っていたという報告であり、その人たちが自分たちの故郷の言葉が話されるのを聞いて、あっけにとられたという出来事です。

 ここで、聖書は何を語っているのでしょう。ここに集まったのは、いろんな人たちです。弟子たちと同じような人もいれば、まったく違う、言葉すら通じない人たちもいる。しかし彼らはみな、神さまの偉大な業を聞くのです。自分たちにわかる言葉で、その語られることを理解するのです。

 これが教会の誕生日に起こった出来事なのです。つまり教会とはそういうものなのです。自分たちと同じような人たちが集まって来て、その人たちに福音が伝えられた。それだけでは教会ではないのです。では教会とは何なのでしょうか。ありとあらゆる人たちがやってくる、その人たちに対して、「神さまはあなたたちのことを愛しておられますよ」と伝える。宣言する。それが教会なのです。

 先日ある雑誌に、こんなことが書いてありました。よくわたしたちは「壁を取り除く」という表現を使います。人種の壁、職業の壁、性別の壁、思想の壁、そして教会にある壁。しかし「壁を取り除く」と言うときに、わたしたちは知らず知らずのうちに、相手を自分の方に取り込もうとする、相手を自分と同じように変えようとする、そのようなことがないだろうかと問いかけているのです。

 確かにそうだなあと思います。この指とまれではないですが、わたしと同じ考えならこっちにいらっしゃい。わたしが大切にしているものを守れるのであれば、ようこそ。そのような考えがもしあるとするならば、それは果たして教会と言えるのでしょうか。

 2000年前、教会が誕生した日に、様々な人たちが集められ、神さまがいると知ることができた。それならば、今ここに立つ教会も、同じようにすべての人をそのままで認め、受け入れていくことが大切なのです。

 今日この日、わたしたちは再び集まることを許されました。神さまはわたしたちに、たくさんのことを語ってこられたし、そしてこれからも語られます。その言葉に聞きましょう。私たちは今日この日に、新たな一歩を踏み出したいと思います。