「キリストの香り」
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マルコによる福音書6章7~13節
今週の福音書にはイエス様が12人の弟子たちを、二人ずつの組に分け、遣わされたということが書かれています。多分近くの町や村に行ったのでしょう。そしてそこで悔い改めさせるために宣教したと書かれています。ということは今回の内容は、いかにして福音を伝えて行くか、宣教のやり方について考えましょうということなのでしょうか。
昨年11月の宣教協議会を受けて、教区や教会では宣教について考える時間を設けています。来週の日曜日には奈良基督教会のプログラムとして、宣教について考えていきます。第2回目として、「聖書を読み、神のみ心を祈り求めよう」というテーマについて分かち合っていきます。また教区でも、先週の木曜日にWebで「人々の声に耳を傾けよう」というテーマでおこなわれました。次回は来週水曜日、同じくWebで「世界の声に耳を傾けよう」という内容でおこなわれます。
さてわたしたちが宣教について考えるとき、そのテーマは、「神のみ声に耳を傾けよう」、「人々の声に耳を傾けよう」、「世界の声に耳を傾けよう」というように、わたしたちがどうすべきかということが中心になっているように思います。わたしは牧師になる前、いろんな仕事を経験していますが、その中に「営業職」というものもありました。たとえば月ごとのノルマが定められ、個人の成績表が貼られ、朝礼の中で褒められたりどやされたり、ということもありました。
そして個人のスキルをあげるために、簡単に言うと成績をアップするために、研修を受けたり、ロールプレイ、つまり実際の場面を想定した練習を積み重ねたり、様々な言葉を頭の中にインプットしたりしていくわけです。自分の力を上げることによって、営業の成績をアップしていく。わたしたちの社会においては、それが物事を人に浸透させていく、その一つの手段となっています。それでは宣教も同じように考えるべきなのでしょうか。
もし宣教が、わたしたちの思う営業と同じようなものであれば、「宣教について考える」といった会合でわたしたちがするべきことは、理論武装の仕方だったり、こう言われたらこう切り返す、いわゆるQ&Aを作り上げていったり、キラーワード、殺し文句を練習したり、そういうことになろうかと思います。
実際多くの新興宗教やカルト教団においては、それを「宣教」と捉えています。人々の不安をあおり、今、決断しなければとんでもないことになる。そのようなイメージで自分たちの仲間を増やしていくということがおこなわれています。
さて、聖書の中で弟子たちも、悔い改めさせるための宣教をおこなっていきます。言葉だけを見るとそれは、今言ったような仲間集め、神の国が近づいたからあなたがたは準備しなさいという、そのようなことのようにも聞こえます。しかし、その宣教に対する備えが全く違うんです。教えを叩き込むわけでも、どのように話をすすめていくかを丁寧に教えるわけでもありません。汚れた霊に対する権能は授けるものの、イエス様が命じられたのは、「これらのものを持って行くな」ということだけなのです。
「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』」とあります。杖は歩くのが困難な道を進むのに必要ですし、野獣に襲われたときに防御するものとなります。パンも、袋も、お金を持たないということは、食べ物の心配を自分でする必要はないということです。さらにユダヤの乾燥地帯で野宿をする場合には、夜になると冷え込むので下着を二枚、履いて寝たそうです。ですから二枚目の下着が必要ないということは、野宿をする必要はない、泊まるところも自分で心配することはないということになります。
「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は,その日だけで十分である」というイエス様の言葉があります。なぜ明日のことを思い悩まなくてよいのか、それは神さまがいつも見守ってくださるからです。だとするとイエス様が示された宣教の形、それは「神さまにすべてをお任せする」ということなのかもしれません。でもそれは、何もしないということを示しているのではありません。現に12人の弟子たちは、それぞれの場所に遣わされたのですから。
少し、わたしたち自身のことを思い返してみましょう。わたしたちが神さまに出会い、イエス様を受け入れた過程は、人それぞれだと思います。幼児洗礼の方もいれば、大人になって教会に連なったという方もおられるでしょう。そのときのきっかけって、覚えておられるでしょうか。なぜ日曜日に教会に行き、どうして洗礼を受けようと思われたのか。そこにはみなさん、それぞれの物語があるのだと思います。
わたしは中学校の宿題で教会に行けと言われたから、むかし通っていた幼稚園があった教会に行きました。そしてそのまま通い続けたのは、居心地がよかったからでした。何だか行くだけでホッとする、それだけでした。別に、三位一体の神という考え方が気に入ったわけでも、聖書のある言葉が気に入ったというわけでもありません。何か分からないけれども、「ここにいれば大丈夫。ここは自分の居場所かも」と思わせる何かがあって、教会に通い続けていたように思います。
12人の弟子たちは、何も持たずに宣教に出かけました。物質的なものも持たず、明日への供えも持たず、そして人々を悔い改めに導く言葉さえも持ちませんでした。しかし彼らは多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやしたそうです。それは自分の力に頼らず、神さまにのみ信頼を置いたからこそ、可能だったのではないでしょうか。
わたしたちの宣教も同じなのです。もしかして、こういう思いを持たれている方はいないでしょうか。「宣教は牧師がするもの」。でもそうではないんですね。わたしが中学のときに教会に通うようになったのも、そこに集う方々から「キリストの香り」を感じたからです。それは牧師だけではない、普通にお祈りしている方々から感じたものでした。きっと多くの方も、周りにいる人に神さまの愛を感じ、そして自分も神さまに愛されていることに気づいていったのだと思います。しかしそれらのことは、特別な教育を受けた人でないとできないものではありません。
神さまの声に、人々の声に、そして世界の声に耳を傾けながら祈るわたしたちは、「キリストの香り」に包まれているのです。その香りを誰と分かち合うか、それが宣教なのです。決して難しいことではありません。さあわたしたちは、誰と歩みましょう。どこでキリストの香りを漂わせ、神さまの愛を感じていきましょうか。そのことを一緒にワクワクしながら考える。それこそが宣教なのではないでしょうか。
わたしたちの歩みが神さまに祝福され、み心に沿ったものとなりますように、お祈りしていきましょう。