2024年11月3日<諸聖徒日>説教

「心の清い人」

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 マタイによる福音書5章1~12節

 今日11月3日の礼拝は、諸聖徒日としておささげしております。日本の仏教の伝統の中に、お盆というものがあります。8月の15日あたりでしょうか。その頃になると原付に乗ったお坊さんをよく見かけます。各家庭で提灯をつるしたり、お供えをしたり、お経を読んでもらったり。その期間には、亡くなった方が戻って来るんだという話を聞いたことがあります。お盆の期間は戻って来られ、そして15日になるとお供えと一緒にまた帰ってもらう。小さい頃に海に行って、何かそのような儀式をした覚えがあります。

 わたしたちが守る諸聖徒日の礼拝を、「これはキリスト教のお盆だ」っていう人もいます。あながち間違いではないかもしれません。確かにこの時期にお墓参りをすることが多いですし、亡くなった方を思い起こす礼拝をいたします。しかし亡くなった方の魂をここに呼び戻そうとするかというと、そうではないんですね。ハロウィンは死者の祭りじゃないかと思われるかもしれませんが、このハロウィンはケルト宗教の祭りがいつの間にかキリスト教に組み込まれたのであって、本来教会とは関係ありません。わたしたちはこの礼拝で、わたしたちの愛する方々が神さまのみもとで憩っていることを覚え、また神さまがわたしたちを愛し、肉体の死の先に永遠の命を与えてくださっていることを感謝することが大切なのです。

 神さまはイエス様を通して、わたしたちにたくさんの愛を示し、そして多くの約束を与えてくださいました。毎年この諸聖徒日礼拝では、イエス様が語られた大きな愛のメッセージを分かち合うことになっています。先ほど読まれましたマタイによる福音書5章1節から12節は、山上の説教と呼ばれる箇所です。マタイ福音書においては5章から7章まで、3章にわたって語られていくこの長い説教は、多くの人の心に光を灯してきました。

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」から始まる一連の言葉。原語通りの順番で言い換えるならば、「幸いだ!心の貧しいあなたがたは!」となります。心どころかすべてのものが貧しく、神さまからも見捨てられていると感じていた人々に、「幸いだ!」と語られるイエス様の声は、今、わたしたちの心にも響いています。

 今日はその中でも、この一節に目を向けたいと思います。それは8節の言葉です。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」。これも語順を変えるならば、「幸いだ!あなたがた心の清い人よ!」となります。

 さて、では「心の清い」とはどういうことでしょうか。その反対であれば、イメージしやすいかもしれません。「心が不純」とか「心が濁っている」、「心が汚れた」など例を挙げたら、「ああ、あの人のことね」と思われるかもしれません。最近のニュースを見ていると、本当に心のすさんだ時代だなと感じることが多くあります。交際相手との別れ話のもつれで、簡単に人を殺してしまう。高齢者を狙った強盗を企てる。そしてその実行役を「闇バイト」と呼ばれる方法で集めていく。

 じゃあ自分が「心の清い人」かと聞かれると、どうでしょうか。こういうわたし自身、よくイライラしますし、「心の清い人」とは、とてもではないですが言えそうにありません。たとえば朝、幼稚園の子どもたちの登園にあわせて門の前に立っていますが、そのときにもついイライラしてしまうことがあるんです。たとえば観光客に対してイライラする自分に気づいたとき、一日心が暗くなります。いろんな反省をしながら、一日を過ごしていく。

 しかし同じように、わたしたちは日々、心の清さとはまったくかけ離れた行動をしてしまうことがあるわけです。思いと言葉と行いによって、罪を犯し続けているのです。「心の清い人は」と呼びかけられても、なかなか「はい、わたしのことです」とは答えられない。「貧しい人」や「悲しむ人」、「義に飢え渇く人」であれば、自分もその中に入っているかな?と考えることもできるかもしれません。しかし「心の清さ」を問われると、どうしてもわたしたちは目を伏せてしまう、そうではないでしょうか。

 では滝に打たれたり、断食したり、祈り続けたり、そうすることでわたしたちは心の清い人になれるのでしょうか。それが無理だということを、聖書はしつこいくらい伝えます。そして正しい人が一人もいないから、イエス様は来られたのです。

 では「心の清い人」というのは、単なる努力目標なのでしょうか。ここで「清い」という言葉にもう一度目を向けてみたいと思います。実はこの「清い」という言葉には、「単純な」という意味も含まれているそうです。「心の単純な」というと、素直でピュアなイメージです。

 この言葉を思い浮かべたときに、なぜだか「こんぺいとう」が頭によぎりました。何故だろうと思いながら、こんぺいとうについて少し調べていました。こんぺいとうには、たくさんの突起物があります。それを「イガ」というそうです。こんぺいとうには核になる「イラ粉」というものを釜の上から下に転がしていくときに、鉄板についた蜜とくっつき、それが固まって「イガ」という突起になるそうです。元々の小さな「イラ粉」という中心部分が、清いところ、単純な部分なのかもしれません。しかしこんぺいとうは、それで出来上がりではないのです。蜜が不思議な形で固まっていって、すべてを包み込んでいく。その結果、人々を笑顔にするお菓子となるのです。

 わたしたちの心もそうかもしれません。わたしたちが神さまからいただいた素直で単純な心、それは本当に清いものだったでしょう。しかしわたしたちは日々の生活の中で、様々な誘惑にあい、また良くない思いや、やましい心に包まれます。同時に温かい気持ちや人への思いやりも生まれます。それらがこんぺいとうの蜜のように、わたしたちの心を包み込むのです。そのイガは、心の清さとは少し違ったものに見えるかもしれません。

 しかし神さまは、そのイガイガをも認め、ご自分の元にわたしたちを呼び集めるためにイエス様を遣わされたのです。イエス様の十字架によってわたしたちは清くされ、わたしたちが不完全であったとしても、「ここにおいで」と招いてくださるのです。

 今日、わたしたちは奈良基督教会に関係する方々を覚え、お祈りをしています。きっとみなさんの心の中には、ここに書かれていない人たちへの思いもあることでしょう。そのお一人お一人がたとえ神さまの前に完全でなくても、正しい者でなくても、「それでいいよ」と受け入れて下さる。わたしたちは清い人とされ、そして神さまに出会うのです。

 そのことをわたしたちは信じ続けていきたいと思います。そしてまたいつか、すべての人たちと天の食卓を囲むその日を目指して、お祈りを続けてまいりましょう。