2022年10月2日<聖霊降臨後第17主日(特定22)>説教

「信仰ってなに?」

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 ルカによる福音書17章5~10節

 わたしが初めて教会の門をくぐったのは、中学一年生のときでした。その頃は、「教会に行っている人」イコール「いい人」だと思っていました。それは海外のドラマや映画の影響もありました。それから40年近くが過ぎました。振り返ってみますと、教会って実は「いい人」の集まりではないということに気づかされ続けてきました。ちょっとしたことでトラブルが起きるし、正義を盾にした争いが起こる。そして何人もの人が教会を去っていくわけです。

 今日の箇所は、ルカによる福音書の17章5節から10節です。先週が16章19節から31節でしたので、17章1節から4節までは飛ばされたということになります。ではこの4つの節にはどんなことが書いてあるのか、お読みしたいと思います。

 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

 このイエス様の言葉は弟子たちに対して語られました。それは言い換えれば、わたしたち一人ひとり、教会に集うわたしたち一人ひとりに対して語られているものだと思います。

 イエス様はこの短い4節の中で、一体何を語られたのか。「小さい者の一人をつまずかせるな」ということ、「仲間が罪を犯したら戒めろ」ということ、「悔い改めれば赦してやれ」ということ、そして「一日に七回罪を犯しても七回悔い改めれば赦してやれ」ということです。最後の七回は文字通りの回数ではなく、際限なく何度でもという意味です。

 さて、聖書を読んでいてわたしたちが注意しないといけないことがあります。それは聖書の言葉をかたよることなくまんべんなく受け入れるということです。いいとこ取りやつまみ食いでは良くないんですね。この箇所を読むだけでも、わたしたちの中でもいろいろな捉え方があると思います。「小さな者」に心を向ける方、仲間の罪に対すること、悔い改めた相手に対してどうするべきか、そして赦しということ。また赦しについてだけ見ても、いろんな考えがあるでしょう。自分が何度でも赦さなければならないんだと思う人もいれば、わたしはいくらでも赦してもらえるはずだ、またあの人は赦すべきだ。そしていつの間にか戒めや悔い改めという言葉が消え去り、教会はただ単に無条件で赦し合う集団であるべきだと考えてしまう。

 すると教会につまずくのです。だってイエス様の言葉の、ほんの一部分だけを用いて語るのですから。そして現に、聖書の中で弟子たちは、イエス様の言葉を受け入れることができずにいました。弟子たちは言います。「わたしどもの信仰を増してください」と。彼らの心には、きっと「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」というイエス様の言葉が突き刺さったのでしょう。

 そして考えたのです。わたしたちのこんな信仰では無理だと。この信仰を大きくしてほしい。それが出来ればわたしたちは、どれだけだって赦せます。一日に七回だろうが何回だろうが、いくらでも赦せます。そう弟子たちは、イエス様に頼んだのです。

 けれどもイエス様は、その弟子たちの言葉に対して答えます。何を言っているのか。信仰の大きさが問題なのではないだと。からし種ほどの信仰があれば、桑の木だって言ういうことを聞くだろうというイエス様の言葉は、「あなたがたにはそんなちっぽけな信仰さえもない」ということなのです。

 彼らは、「どうやって自分は赦せばいいのか」、そこだけに目を向けてしまいました。その結果、肝心の事が見えていないのです。イエス様が伝えたかった本意が理解できなかったのです。そこでイエス様は、主人としもべのたとえを出されました。イエス様の語り方、面白いなあと思います。なぜならイエス様は最初、「あなたにしもべがいる場合」と語られます。まず自分が主人だったらどうするかと問うんですね。ここで言う「しもべ」とは、いわゆる奴隷のことです。奴隷と聞くとわたしたちはアフリカから連れて来られた黒人奴隷のように、「不当に自由を奪われた者」というイメージをもつかもしれません。しかし当時は職業としての奴隷もおりましたし、借金の代わりに返済まで奴隷になるといった人もいたようです。

 これは、わたしたちの日常の中では、なかなか理解できないことです。例えば、レストランに行って、サービスを受けたときのことを思い出してみてください。水がなくなったら注いでくれるし、フォークを落としたら新しいものを持って来てくれる。そのたびに「ありがとう」とは言うものの、「お礼に一緒にご飯食べましょう」とまではなりません。

 だって、当然だろうってイエス様は言われるのです。レストランの給仕と奴隷とでは、立場も身分ももちろん随分違います。けれども、弟子たちも主人の立場に立ってみると、「そりゃあお金払ってるんだし」、「養っているんだし」と当然のこととして受け入れます。わたしたちだってそうでしょう。

 しかしいざ、「あなたがたも同じことだ」とイエス様が続けられたときに、ハッとするのです。わたしたち自身もしもべの一人、神さまのしもべなのだと。

 わたしたちは思い違いをしているのです。自分の信仰を大きくしないと、自分の力を強くしないと、自分が教会の番人になって裁いていかないと。自分が自分がと前に出てしまうわたしたちを見て、「あなたがたも同じことだ」とイエス様は言われるのです。

 「つまずかせるな」、「戒めろ」、「赦せ」。この三つの命令は、到底自分の力だけで実現可能なものではないのです。わたしたちはただただ神さまのみ恵みの中で生かされ、その愛の中を歩んでいるのにすぎないのです。その思いを忘れず、神さまと人とに仕える者となる。そのためには、からし種の信仰で十分なのです。このからし種の信仰は、決して自分の力で生み出すことなどできません。神さまにお任せして、わたしたちに与えられたことをおこなう。

 失敗もすれば、間違いも犯すでしょう。だってわたしたちは、「取るに足りないしもべ」なのですから。でも神さまが、足りない分を十分すぎるほど、補ってくださる。そのことを信じ、歩んでいければと思います。