2022年5月8日<復活節第4主日>説教

「羊をまもるために」

YouTube動画はこちらから

 ヨハネによる福音書10章22~30節

 ヨハネによる福音書10章には、羊飼いに関するイエス様の言葉が書かれています。しかし残念なことに、2000年前のイスラエルの人たちとは違い、わたしたちの周りには羊飼いがいません。羊もその辺の空き地にいるわけではありません。

 ですからわたしたちはこのヨハネ福音書10章を読んでも、あまりピンとこないかもしれません。そこで今日はまず、みなさん羊になりきって、今日のお話を聞いていただければと思います。

 羊という動物には、いろいろな特徴があります。まず目がとても悪いということ。遠くを見渡すことができないので、草原やオアシスにも自分だけではなかなかいけないと言われます。だから移動するときも、仲間のお尻にくっついていくそうです。また羊はとっても怖がりだそうです。大きな音にビックリして走り出すこともあります。さらに敵が多い。狼などの野獣だけではなく、盗賊にもいつも狙われています。彼ら羊はそんな弱い自分たちのことをよく知っているので、仲間で集まって行動します。

 そして、これは本当かウソかわかりませんが、羊は倒れてしまうと自分の力では起き上がれないそうです。ひっくり返ったら誰かが来て起き上がらせてくれるのをひたすら待つ。それが羊なのだそうです。

 自分の力で草原やオアシスに行くことが出来ない、とても怖がりでいつもおびえて過ごしている、敵が多く震えている、倒れると自分で起き上がることができない、これらの羊の特徴を聞かされたときに、自分にも同じところがあると思った方はおられないでしょうか。

 わたしたち人間には、とても弱い部分があります。恐れや不安を持ちながら生きている中で、何かにすがりたい、そのように思うわけです。2000年前のイスラエルの人々もそうでした。自分の力で歩むことができない。明日に希望を見出すことができない。その中で、イエス様の言葉を耳にします。

 「良い羊飼い」、イエス様はこのようにご自分のことをたとえられます。「良い羊飼い」がいるのですから、「普通の羊飼い」や「悪い羊飼い」もいるのでしょう。「悪い羊飼い」、それはきっと、自分の利益ばかりを考えて羊のことなど顧みない、そんな羊飼いなのかもしれません。利益になりそうな丈夫な羊には手を掛けるものの、弱っていたり小さかったりする羊はほったらかしてしまう。それらの羊が飢えようと、のどが渇こうと関係ないのです。そんな羊に構っている時間も手間も惜しんでしまう。そしてオオカミや盗賊が来たら逃げ足の遅い羊たちは残して、丈夫な羊と逃げ出してしまう。それが「悪い羊飼い」なのでしょう。

 では「普通の羊飼い」はどんな羊飼いだろうか。そう考えているときに、先ほどの「悪い羊飼い」とそんなに変わらないのかもしれないな、とも思えてきました。群れを維持するためには、弱った羊は見捨てる方が普通なのです。野獣や強盗が来たら、まずは自分の身と財産を守ることが大事です。それが普通なのです。

 見捨てられる羊には、それだけの理由がある。人々はそう思っていました。弱いから、使い物にならないから、だからそんな羊は見捨てられる。そしてそれは普通なのだと。

 当時の宗教指導者も、周りの人々に対して同じように考えていました。お前たちは弱い羊なのだと。だから神さまはそんなお前たちを見捨てたのだと。それは何もおかしなことではない。普通の羊飼いがやっているように、極めて当たり前のことなのだと。

 2000年前のユダヤでは、自分たちの仲間でいるには、それなりのことをしなければならなかったそうです。律法をきちんと守るのはもちろんのこと、決められたささげ物をしたり、罪人や徴税人たちと交際しなかったり、そのようなことをきちんとして初めて、仲間として認められる、逆に言えば排除されずにすんだのです。

 その仲間だけが、神さまの前に立てる、神さまからの憐れみを受けると考えていました。そして羊飼いに面倒を見てもらうために、強く、正しく生きようとした。自分たちの足を引っ張る存在は追いやって、自分たちだけが救いの中に入れたらよいと考えたのです。

 そう考えてみますと、イエス様の言われた「わたしは良い羊飼いである」という宣言は、神さまや羊飼いに見捨てられてしまったとうつむいてしまっている人びとだけではなく、「彼らは見捨てられた」、「彼らは救われない」という思いで周りの人々をさげすむ、そんな人たちに対しても語られたのかもしれません。

 良い羊飼い、彼は羊のために命を捨てるとイエス様は言われます。羊が財産だからというわけではありません。ただお金のためにであったら、命を捨てるのはナンセンスです。また羊に対して見どころがあるから助けてあげようとか、自分の言うことをしっかり聞くから守ってあげようというのでもないのです。

 ただただ弱い羊を、自分が助けなければすぐに倒れてしまうような小さな羊を、ただ守りたい。生かしたい。その気持ちだけで、良い羊飼いであるイエス様は、弱い羊を、わたしたち一人ひとりを守ってくださるのです。

 今日の箇所の中に、このような一文があります。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。さらに今日は読まれなかった10章3節にはこのようにも書かれています。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。

 わたしたちはイエス様の声を聞き、その導きに従っていきます。そしてイエス様は、わたしたち一人ひとりの名前を呼んでくださるのです。想像してみてください。イエス様がわたしたちに、名前を呼びながら近くに来られる場面を。

 名前を呼ぶということは、名前を知っているということです。名前を知っているということは、わたしたちは大勢の中の一人ではない、かけがえのない一人だということです。わたしたちの思いも、痛みも、悲しみもすべて知り、共感してくれるということです。

 わたしたちは決して、見捨てられた羊ではない。弱いからこそ、小さいからこそ、イエス様はわたしたちの名を呼び、命を与えて下さったのです。そのことを、心から喜びたいと思います。

 そしてこの教会も、弱くされた人たち、小さくされた人たちに対して開かれたものとして用いられますように。お金がなくても、特技がなくても、生きる希望がなくても、ここにおいで。良い羊飼いであるイエス様の声を一緒に聞こうと、招くことが出来ればと思います。