2019年8月25日〈聖霊降臨後第 11主日〉説教

あなたの憐れみが
 ヘブライ12:18-19、22-29

  司祭 ヨハネ 井田 泉
  奈良基督教会にて

 今日は使徒書のヘブライ人への手紙からお話ししたいのですが、その前に今日の特祷に触れておきたいと思います。先ほど 聖書日課の前に「特定 16」の祈りをささげました。先週お配りしたメモにも記しておきましたが、毎主日の特祷は、16 世紀の 英国の宗教改革の過程でカンタベリー大主教トマス・クランマ ーが、それまでのさまざまな祈りを参照しながら、当時の教会 が、また人びとが必要としている祈りを、心血を注いで整えたものです。
 実を言うとわたしは日本聖公会の特祷の日本語は十分でない ような気がしています。それは言葉があまりに整いすぎて、わ たしたちの切実な現実の課題と深く結びつきにくい感じがするからです。けれども特祷はその程度のものであるはずがありま せん。特祷を整えたトマス・クランマーは、現実に殉教した、火に焼かれて死んだのです。

 今日の特祷の初めの言葉を確かめてみましょう。
「主よ、教会はただ主の助けによってのみ健全に立つことが できます。」
 これは何でしょうか。教会は危うい、と神さまに訴えている のです。神さまの助けがなければ倒れてしまう、崩壊してしまう、と祈っているのです。教会に悩みがないのなら、心配がな いのなら、この祈りはなくてもよい。しかし現に教会には悩み があるではありませんか。現在の葛藤があり、将来の心配がある。そこで、その葛藤と心配をただ自分たちのうちに抱えたまま、グチを言ったり失望したり、場合によっては人を非難した りしているだけにとどめるのか、それともその葛藤と心配を神 さまにもとに携えて行って神の助けを求めるのか。これは大違 いです。
 神にこの現実を知っていただく。見ていただく。聞いていただく。神さまはわたしたちに対して無関心ではないのですから、 必ず必要な助けを与えて、わたしたちを前向きにして、立たせて、歩ませてくださるのです。
 「主よ、教会はただ主の助けによってのみ健全に立つことが できます。」

 このあとの部分は、元になったクランマーの祈りがとても印 象深いので、そちらのほうをご紹介します。英語のほぼ直訳です。
「主よ、あなたの絶え間ない憐れみが、あなたの会衆を清めて、守ってくださいますように」
 「あなたの憐れみ」が主語です。神の憐れみが、主イエスの 憐れみが発動する。生きて働く。憐れみとは何か。人が痛いとき、神も痛いと感じられる。人が傷つけられたとき、神もご自分が傷つかれる。わたしたちがひどい目に遭わされたとき、神はわたしたちのために嘆くとともに、わたしたちのために憤ってくださる。その神の憐れみが主イエスのうちに働いて、イエ スの涙となり、祈りとなり、行動となったのです。そのような 神の憐れみは一時的なものではなく、偶然のものではなく、絶え間なく、ずっと継続する。なぜなら神はわたしたちを愛し続 けておられるからです。
 「あなたの絶え間ない憐れみが、あなたの会衆を清めて、守 ってくださいますように」
 「あなたの会衆を」。
クランマーはここを「教会」church と いう言葉を用いずに「会衆」congregation という言葉を用い ました。会衆とは「集まった人」です。言い換えれば「祈るために神さまに集められた人たち(群れ)」です。わたしたちはあなたのもの、神さまのもの。あなたの群れであるわたしたちを 守ってください。
 傷ついているのです。病んでいるのです。失望しているのです。不安を抱えているのです。けれどもわたしたちはあなたの もの。あなたの会衆であるわたしたちを守ってください。

 ここにもうひとつ、大事な言葉があります。「あなたの会衆を清めて」という言葉です。わたしたちは清くない。神のことを思わず自分のこと、人のことを考えている。人を非難して自分は正しいと思っている。文句は言うけれど祈らない。憎しみはあるけれど愛がない。この清くないわたしたちを、あなたの憐れみが清めてください。
  「あなたの会衆を清めてください」という祈りを前にして、 わたしたちは清くない自分を感じます。けれどもわたしたちの 救い主イエスは、わたしたちを愛するがゆえに、清くないわた したちのために涙を流してくださる。たとえ直接涙を見せられることはなくても、イエスはわたしたちのために心のうちに憐れみの涙を流しておられるのです。

 ヨハネ福音書の中にこういうことが書いてあります。イエス が十字架に死なれたとき、「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を 刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」(ヨハネ 19:34)。
 イエスのわき腹から流れ出た水とは何か。いろいろと議論があることでしょう。けれどもわたしはイエスのうちにいっぱいたまっていた涙だと思います。イエスの体が破れて涙が溢れ出た。イエスの涙は、わたしたちのうちに入って、わたしたちを清めるのです。
 イエスの憐れみは涙となってわたしたちを清める。と同時に、イエスの憐れみは、血となってわたしたちを清めます。イエスのわき腹から出た血は、水と同じくイエスの憐れみの血。イエスの憐れみの血がわたしたちを清めてくださる。
 イエスの憐れみの涙と血が、わたしたちの清めのためには必 要なのです。
 トマス・クランマーは自分が清くないことを知っていました。教会が、会衆が清くないことを知っていました。国と社会が清くないことを知っていました。そのゆえに、彼は自分と会衆と社会と国のために、主の憐れみを切望し、主の憐れみが神の会 衆を清めてくださるようにと、この祈りを用意したのです。

 ヘブライ書について語る時間がなくなってきました。けれどもちょうど先ほど読まれた中にはイエスの血のことが語られて いました。第 12 章 22 節のはじめ……
  「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける 神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり… …」
 そして最後にこうしめくくられます。
  「24 新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも 立派に語る注がれた血です。」
 わたしたちは、「語る血」に近づいた。だれの血かと言えば、 イエスの血です。イエスの血は強く切実に語っています。
 「不当に傷つけられた人びとをわたしは憐れむ」
 「危険にさらされている人たちをわたしは憐れむ」
 「わたしの憐れみはあなたがたを清める」

  祈ります。

 清めてください、主よ、わたしたちを。わたしたちを守って ください、主よ。あなたの助けによって、教会が、わたしたち一人ひとりが健全に立って歩むことができますように。主の憐 れみがわたしたちを清め、生かしてくださいますように。救い 主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン