2021年8月22日<聖霊降臨後第13主日(特定16)>説教

「命を与える言葉」

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ヨハネによる福音書6章60~69節

 今日の福音書の言葉、衝撃的だったのではないでしょうか。教会では8月から4回、ヨハネによる福音書が読まれました。「わたしが命のパンである」、「わたしは、天から降って来た生きたパンである」、「このパンを食べる者は永遠に生きる」。イエス様はこのように語りかけ、そして今日の場面では、「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と語られました。

 その結果、弟子たちの多くの者が「こんな話は聞いていられない」と首を振り、離れ去り、イエス様と共に歩まなくなったと書かれています。

 先週、礼拝堂での説教の中で、ヨハネ福音書はイエス様の十字架から結構時間が経って書かれた物だという話をしました。今から2000年も前のことですので諸説ありますが、ヨハネ福音書はおおよそ起元90年の後半以降に書かれたのではないかと考えられています。つまりそれは、イエス様の十字架から60年以上経ってのことなんですね。当時の平均寿命がどれほどであったかはよく分かりませんが、60年も経っていたらイエス様と共に行動していた人たちはほとんど天に召されていたのではないかと思います。

 そのころには、だんだん共同体というものが形成されていきます。そのため福音書の記事の中に出てくる内容が、その当時の共同体の苦悩や痛みを現していることもあるのです。

 つまり、弟子たちの多くの者が「こんな話は聞いていられない」と首を振り、離れ去り、イエス様と共に歩まなくなったという記述は、その当時の共同体の人たち、イエス様のことを直接知らない人たちが共同体から離れて行ったということをも意味しているのです。

 実はその少し前、彼らの信仰を揺るがす大きな出来事がありました。起元70年に、エルサレム神殿は崩壊してしまいます。

 信仰のよりどころとして大きな位置を占めていた神殿が崩壊してしまった。そのことを人々はどのように感じたのでしょうか。神殿がなくなったこともあり、キリスト教徒たちは様々な場所に散らされていきました。さらにユダヤ教やローマ帝国からも迫害を受け、彼らの立場は危ういものとなっていきます。

 その中でも生きる希望を得たい、救いの確信が欲しい、そう思って人々はイエス様の言葉を求めて集まって来たのだと思います。しかし、人々の心にイエス様の言葉は届かなかった。正確にはイエス様が以前語られた言葉を聞いたのですが、人々の心は恐れにより固く閉ざされ、そして次々と去っていったというのでしょう。

 今、わたしたちは新型コロナウイルスという、今まで経験したことのない感染症のために、たくさんの制限がある中で生活をしています。教会で一緒に食事をすることも、長時間の交わりを持つことも、歌を歌うこともできません。陪餐も受けることができません。それどころか、教会に来ることすらできない。そのような方も多くおられます。わたしたちは数年前まで、こう思っていたかもしれません。礼拝に来て、陪餐を受ける。そのことでわたしたちは一週間の活力を得ることができると。

 ところが、それができなくなってしまった。エルサレム神殿が崩壊してしまったように、わたしたちの信仰の大きなよりどころが崩壊してしまったのです。そのときに、わたしたちはどう生きるのか、そのことが問われているように思うのです。

 2000年前の人々は、うろたえました。目に見える神殿が崩壊したときに、彼らはどうしていけばよいのかわからなくなったのです。今を生きるわたしたちはどうでしょうか。陪餐を受けることができなくなったときに、礼拝に来ることができなくなったときに、わたしたちの心も2000年前の人々のようにイエス様の元から去ってしまうのでしょうか。

 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。

 これはコリントの信徒への手紙二4章18節の言葉です。数年前、この聖句を前任地の教会では年間聖句としました。今、改めてこの聖句を読んだときに、そのときに感じたものとは違う感情が沸き上がってきます。見えるもの、そのときはお金や財産、名誉や地位など、そのようないわゆる俗世間のものを「見えるもの」だと解釈していました。

 でも今、このコロナ渦の中で考えさせられているのは、「教会とは何か」ということです。コロナになる前も、「教会とは建物ではなく交わりだ」ということは言っていました。でもそれは、「建物としての教会はなくならない、普遍的なものだ」といういわば傲慢な思いの中で語っていたようにも思えます。

 わたしたちには今、教会とは何かということが神さまから問われているように思います。ただの集まりだったら、公民館でもいいわけです。ただの食事会だったら、レストランを借り切ればいいのです。でも教会でなければならない、この交わりでなければならない、それはなぜなのでしょうか。

 その答えは、この一ヵ月ヨハネ福音書を通して与えられた言葉の中にあります。それは、イエス様が語った「わたしが命のパンである」、「わたしは、天から降って来た生きたパンである」、「このパンを食べる者は永遠に生きる」という言葉です。

 もしこのパンが、エルサレム神殿のように目に見えるものを指すのだとしたら、 人々が首を振りながら、その場を去って行ったのもよくわかります。なぜならわたしたちの目の前にはそれらのものはないのですから。わたしたちがそのパンをいただこうにも、イエス様もいなければ、パンという物質もありません。

 でも思い出してください。神さまはイエス様を通して、わたしたちに命を与えようとされました。そのために、何をなさったのか。それがイエス様が進まれた十字架だったわけです。イエス様の十字架の死によって、イエス様の肉体は滅びます。まるで、エルサレム神殿が崩壊したのと同じように。

 しかしイエス様の死は、それで終わりませんでした。イエス様は墓からよみがえられ、わたしたちに聖霊を、命を与えるために復活されたのです。目に見えるもののままだったら、わたしたちとは何も関わりのない方だったでしょう。しかしイエス様は目に見えない形で、確かにわたしたち一人ひとりと関わってくださるのです。今こそ、目に見えないもの、イエス様の言葉に耳を傾けましょう。イエス様がわたしたちに話される言葉は、霊であり、命であると教えてくださいました。その言葉によって、わたしたちは日々生かされるのです。

 わたしたちに命を与える霊を、ご一緒に求め続けてまいりましょう。