2021年12月19日<降臨節第4主日>説教

「実現する主の言葉」

YouTube動画はこちらから

 ルカによる福音書1章39~45節

 先ほど読まれた福音書には、二人の女性が登場しました。一人はイエス様のお母さんになるマリア、そしてもう一人は洗礼者ヨハネのお母さんになるエリサベトです。二人には共通点がありました。それは二人とも、まもなく赤ちゃんを産むことになるということです。そしてもう一つ、さらに大きな共通点がありました。それは二人とも、本当であれば赤ちゃんを産むことなどできない人だったということです。神さまのご計画の中で、常識では考えられない、ありえないことが起こります。その渦中に引き込まれた二人だったのです。

 エリサベト、彼女は高齢の女性でした。彼女は夫ザカリアと共に、いつも神さまにお祈りをしていました。「神さま、わたしたちに赤ちゃんをさずけでください」。でもいつまでたっても子どもができることはなく、もうお祈りするのもあきらめていました。子どもができない、そのことは当時のユダヤの人たちにとっては大問題でした。それはみんな、このように思っていたからです。「子どもが生まれるのは神さまが祝福してくださったしるしだ。でも子どもができないのは神さまが祝福していない証拠だ」と。エリサベトの耳にも、そのような言葉は入ってきたでしょう。最初は陰口をたたかれるたびに、「そんなことありません」と反論していたかもしれません。でも年を重ねるにつれ、あきらめます。どうでもよくなるのです。そして自分たちは神さまから見捨てられたのではないか、そう考えるようになったことでしょう。

 そんなある日、夫であるザカリアに主の天使が現われ、とんでもないことを告げます。「エリサベトに子どもが生まれる」。とても信じられることではありませんでした。ありえないことでした。ザカリアはそのみ告げを信じられずに、口が利けなくなってしまいました。日に日に、エリサベトのお腹は大きくなっていきます。主の天使が告げられたこと、つまり「エリサベトに子どもが生まれる」ことが現実のこととして、エリサベトの身に起こっていきます。このときのエリサベトの心境はどうだったでしょうか。夫ザカリアは会話できなくなっていました。外に出るのもためらわれたことでしょう。

 神さまの大いなるみ業が、自分のこの身に働いている。その実感はあるものの、どうすることもできない。誰にも相談できない。心の中がモヤモヤしているんです。もしみなさんがエリサベトの立場だったら、どうされるでしょうか。

 一方のマリアも、本当であれば子どもはできない女性でした。彼女にはいいなずけであるヨセフがいました。でもまだ結婚はしていません。未婚の女性に赤ちゃんができることはありえないことでしたし、律法によれば、石打の刑にされてもおかしくない罪でした。天使ガブリエルから、「おめでとう、恵まれた方」と言われ、「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられたとき、マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか」と戸惑います。「神にできないことは何一つない」という天使の言葉に、「お言葉どおり、この身に成りますように」と受け入れますが、内心はどうだったのでしょうか。

 彼女もまたエリサベト同様、神さまの大いなるみ業に戸惑います。彼女の力だけではどうすることもできない神さまのご計画に、ただその身を委ねることしかできません。もしみなさんがマリアの立場だったら、どうされるでしょうか。

 エリサベトとマリア、この二人の女性は救い主の誕生という大きな喜びの訪れを前にして、戸惑いと恐れと不安の中にありました。自分たちを介して神さまの愛がすべての人に与えられることを知りながら、二人の心は揺れ動いていました。

 今日、降臨節第4主日にこの物語が読まれる意味、それはわたしたちもまた同じような気持ちでここに集っているからかもしれません。わたしたち一人ひとりには、神さまのみ手が伸ばされています。その温もりを感じている人も、半信半疑でいる人もいるでしょう。例年だとすでに明るく灯された光の中で、鮮やかに飾られた花の中で、クリスマスおめでとうという祝会でのあいさつの中で、自分の心の葛藤に気づかなかったかもしれません。でも今年は違います。静かな心で、自分自身を見つめることができます。神さまの呼びかけに気づき、でもそこにすべてを委ねきれない自分にも気づくことが出来ます。

 そのような機会を与えて下さった神さまに、感謝しましょう。祝会ができない、みんなで食事ができない。寂しいことです。でもその寂しさをはるかに超える喜びと気づきが、わたしたちの間にはあるのです。

 マリアはエリサベトを訪ねる決心をしました。ナザレというガリラヤの町からユダの山里まで出かけて行きました。地図で見ると随分遠い場所です。今のように新幹線や飛行機で、というわけにはいきません。でもマリアはエリサベトに会いたいと思いました。なぜそう思ったのでしょうか。天使ガブリエルが言ったことが、ウソではないことを確かめたかったのでしょうか。そうではないと思います。自分の身に降り注いだ出来事、神さまの愛を誰かと分かち合いたい。神さまのことを共に賛美したい。その思いが彼女を突き動かしたのだと思います。

 わたしたちも同じではないでしょうか。わたしたちは神さまの豊かな恵みを受けた、一人ひとりです。その恵みを確かめ合うために、わたしたちはこうやって出会うのです。わたしたちは決して一人ではない。イエス様を通して、わたしたちはつながっているのです。

 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたときに、そのお腹の子はおどったそうです。そしてエリサベトは聖霊に満たされました。二人の出会いを通して、神さまの恵みが感じられるものとなりました。わたしたちも感じましょう。お互いが出会うことによって、お互いに与えられた神さまの祝福を豊かに感じましょう。わたしたち一人ひとり聖霊に満たされ、イエス様のご降誕への備えをしてまいりましょう。

 わたしたちの前には、たくさんの喜びが用意されています。マリアとエリサベトもやがて来る喜びに向かって、神さまと共に進んでいきました。すべてを委ねて、歩んでいきました。わたしたちもまた、神さまからの光を受けて、歩んでまいりましょう。

 すべての人に光が与えられ、その心にイエス様が来てくださいますよう、お祈りしております。