2019年12月24~25日〈降誕日第1聖餐式〉説教

権威がその肩に 
イザヤ9:5

  司祭 ヨハネ 井田 泉
  奈良基督教会にて 

 遠い昔、イザヤが預言して言いました。

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。』」イザヤ9:5

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。

 ここにわたしたちは赤ちゃんのイエスさま、救い主を見出します。
 ところでイザヤの預言によれば「権威が彼の肩にある」といわれます。その方は権威ある方、権威を帯びた方。

「権威が彼の肩にある。」

 しかし「権威」というと、いかめしく、何か近寄りがたいものを感じます。実際はどうなのでしょうか。

 成人されたイエスさまが30歳で公に活動を開始されたある日、カファルナウムの会堂の礼拝で説教されました。そのとき、それを聞いた人々、そこで起こったことを見た人々は驚いて口々にこう言いました。

「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」マルコ1:27

 礼拝に集った人々はイエスの言葉と行動に権威を感じた。何の権威かというと、神の権威です。言い換えれば、イエスをとおして神さまが語っておられるのを、人々は聞いた。人のおしゃべりをやめさせて静けさをもたらし、謙遜にさせる神の声を人々は聞きました。人を愛し憐れまれる神の働きを人々は経験しました。それを「権威ある新しい教えだ」といったのです。

 ところで「権威」と訳されたギリシア語は「エクスーシア」ἐξουσία という言葉で、その元々は「本質(ウーシアοὐσία)から出て来た」「本質から溢れ出た」という意味合いの言葉です。人々が感じ、経験したイエスの権威とは、神さまの本質から溢れ出る命と力と愛。神の命と力と愛を、人々はイエスに接するなかではっきりと経験した。自分たちに注がれる神の力ある愛を経験したのです。
 そうすると「いかめしい」「近寄りがたい」というイメージのあった「権威」というのとはずいぶん違ってきます。

「権威が彼の肩にある。」

 イエスがその肩に何かを帯びておられた、あるいは担っておられたことがあったでしょうか。

 第1に思い出すは、ご自身がなさった譬え話です。100匹の中の失われた1匹の羊を羊飼いは捜し回る(ルカ15:4)。そして見つけたら、喜んでその羊を肩に担いで家に帰る。イエスの肩に担われ、守られ、運ばれるのは、失われていたけれども見出された、大切な羊です。その羊飼いとはイエスさまのことであり、その羊とは、わたしたちのことです。

 第2に気づくのは、イエスが肩に担われた十字架です。死刑判決を受けて、裁きの場所ガバタからゴルゴタまで、イエスは十字架の横棒を担がれた。そして十字架につけられて死なれた。イエスが担われた十字架は苦難の十字架。わたしたちを愛されるがゆえの十字架です。イエスによって担われているのは、わたしたちの病、わたしたちの苦しみ、わたしたちの罪、わたしたち自身です。

「権威が彼の肩にある。」

 権威とは揺るがない、ということです。権威とは断乎たる決意と行動です。イエスの肩に権威があるとは、わたしたちを愛しぬく決意、わたしたちを決して見捨てない確かさを指しています。

 飼い葉桶の中に人生を始められた方は、わたしたちを招き、探し、見出し、引き寄せて、その肩に乗せて神さまのもとにわたしたちを帰らせる。そのために、十字架を担う人生を始められました。
 飼い葉桶の中に十字架の光、愛の光がさしています。