「空(から)の墓」
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ヨハネによる福音書20章1~18節
主のご復活、おめでとうございます。こうしてみなさんと礼拝ができますこと、本当にうれしく思います。
聖書の描くイエス様の復活、聖書には4つの福音書が収められていますが、そのいずれにもイエス様の復活の物語は載せられています。そしてそこには共通点があります。それは、そこにはイエス様はおられなかった、ということです。わたしたちは多分、人が復活すると聞くと、「体の甦り」を想像するのではないでしょうか。土葬されたお墓の中から手がニョキって出て、土が盛り上がってきて、死んだはずの人が出てくる。まるでゾンビ映画のワンシーンです。
さて、わたしたちが手にしている聖書ですが、実はこれは長い年月をかけて、これを正典、つまり正しい信仰の書としましょうと決めて編集されたものです。そしてこのほかにも聖書には収められなかった福音書や手紙など、いろいろな物が存在します。
たとえば、一時期有名になった、ユダの福音書というものがありました。イスカリオテのユダの名を冠して書かれたこの文書は、ユダが他の弟子たちよりも知識を持ち、真理を授かっていたというような内容になっています。そして、ペトロの福音書というものも存在します。この福音書の大きな特徴は、復活の場面にあります。聖書にある四つの福音書はいずれも、イエス様は墓からいなくなっていた。つまり、「空の墓」を描きます。
しかしペトロの福音書では、二人の天使がイエス様の両脇を抱え、墓から連れ出してくるという場面を描きます。さらに墓から出てきたイエス様の頭は、天にまで届いていたとも書かれています。わたしたちが手にしている聖書の、福音書の記述だけでは足りなかったのか。弟子たちや女性たちの証言だけでは、信用できなかったのか。いずれにせよ復活の物語を劇的にするために、イメージしやすいように、誇張し、脚色したのではないかと考えられています。
それほどまでに、わたしたちにとってイエス様の復活というのは、理解しがたい出来事なのです。経験したこともなければ、想像もできない。イエス様のご遺体が墓穴から消えていた。普通に考えたら、盗賊に持って行かれたか、野獣に襲われたか、それとも誰かが隠してしまったのか、となるでしょう。
先ほど読まれたヨハネ福音書によると、イエス様が葬られた墓に最初に行ったのは、マグダラのマリアでした。週の初めの日、朝早くというのは、安息日が明けてすぐということです。まだ暗いにもかかわらず、彼女は墓へと行きました。彼女の思いは何だったのでしょうか。他の福音書には香料や香油を塗るためだと書かれていますが、今日読まれた福音書には書かれていません。でも間違いなく言えるのは、彼女は復活したイエス様に会いに行ったわけではなかったということです。
イエス様はご自分の活動の中で、何度も繰り返し言われていました。ご自分が受難されること、そして三日目に復活することになっているということを。そしてそれが神さまのご計画だということも、イエス様は弟子たちに対して語られていました。
マグダラのマリアは、弟子に極めて近い存在だったと言われます。聖書の時代ですから女性を弟子として明記することはなかったでしょうが、実際はイエス様の弟子の一人であっただろうと言われます。その彼女の耳には、イエス様が三日目に復活することになっていると言われていたことは、当然入っていたでしょう。イエス様から直接でなかったとしても、弟子たち同士の会話を聞いて、「そうか、イエス様は復活されるんだ」と聞いていたかもしれません。しかし彼女が墓に行ったときには、その復活という出来事は信じることができていませんでした。
「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」、そう告げる彼女の言葉には、復活の喜びなど、みじんも感じられません。空の墓は、彼女に喜びをもたらしてはくれなかったのです。
彼女は自分が見たそのままを、イエス様の二人の弟子に伝えます。一人はペトロ、もう一人はイエス様が愛しておられた弟子です。その二人は墓へ走ります。先に墓に着いたのはイエス様が愛しておられた弟子ですが、彼はすぐには墓に入りませんでした。そして後から到着したペトロが、先に墓に入ります。そこは空の墓でした。もう一人も入って来て、空の墓を見ました。そして「見て、信じた」と聖書は報告します。ただこの信じた内容は、イエス様の復活ではなく、イエス様が取り去られたという事実だけのようです。
さて、今日わたしたちは、復活日の礼拝をおこなっております。イースターの喜びを分かち合っています。けれどもわたしたちの前にあるのは、空の墓の物語です。そこに復活のイエス様を探しに行ったけれども見つからない、そんな物語です。マリアは墓の外で泣きました。イエス様を失ってしまった悲しさから、彼女の涙は止まりませんでした。ふいに彼女にイエス様が話しかけて来られます。けれども彼女には、それがイエス様とはわかりませんでした。しかしイエス様が「マリア」とその名を呼ばれた瞬間に、マリアの目は開かれたのです。見えなかったものが見えたのです。復活のイエス様が、わたしのそばにいてくださる。そのことに気づかされるのです。
わたしたちにとっての復活物語。それはこのマリアの物語と同じなのかもしれません。自分で探し回っても、見つからない。頭でいくら考えても、理解できない。でもふいに、声を掛けられる。手を差し伸べられる。そして目が開かれるのです。そのときに、わたしたち一人ひとりの復活物語が、つくられていくのです。
神さまは何度も、何度でも、わたしたちを呼ばれます。そして復活のイエス様をわたしたちの元に、遣わされます。それは、神さまがわたしたちを愛しておられるから。わたしたちが神さまによって生かされ、歩んでいくことができるように、イエス様はわたしたちの元に来られたのです。
復活という出来事、それは驚くべきことかもしれません。でもそれよりも驚くべきこと、それは神さまがわたしたちの名を呼んで、招いてくださるということです。この復活日にこそ、そのことを憶え、感謝したいと思います。
来週、そして再来週と、復活のイエス様との出会いが繰り返し語られていきます。神さまはそのように、何度も何度でもわたしたちにかかわってくださるのです。
皆さまと、その神さまの愛をご一緒に分かち合うことができれば、こんなにうれしいことはありません。
イースター、おめでとうございます。そして神さま、ありがとうございます。