2022年2月27日<大斎節前主日>説教

「キリストの体」

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 ルカによる福音書9章28~36節

 今日、大斎節前主日の特祷の中に、このような言葉がありました。「あなたはその独り子の受難の前に、聖なる山の上でみ子の栄光を現されました。どうかわたしたちが、信仰によってみ顔の光を仰ぎ見、自分の十字架を負う力を強められ…」。前半の「聖なる山の上でみ子の栄光を現された」ということは、今日の福音書の物語に通じています。

 ルカ福音書で読まれたのは、いわゆる「イエス様の変容」と呼ばれる箇所です。ここでポイントとなるのは、イエス様がモーセとエリヤと会話している内容です。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」。つまり、イエス様の十字架について、三人で語っていたというのです。

 「み子の栄光」、それはイエス様の十字架のことです。そのことを示されたときに、わたしたちはこの40日間、どのような思いでイエス様と共に歩んでいくのか考えていきたいと思います。

 今日の使徒書にも、耳を傾けてみましょう。今日の使徒書はコリントの信徒への手紙一12章27節から13章13節です。この手紙はパウロがコリントの信徒に対して出したものですが、「勧告的書簡」と呼ばれることもあります。勧告をするのは、そこに何か問題があるからです。ではどんな問題があったのでしょう。手紙からはいろいろと推察することもできますが、大きなものは次の二つです。

 一つは、教会が分裂しようとしていたということ。例えば彼らの中には、パウロから直接指導された人もいれば、アポロという伝道者によって教わった人もいました。それだけだったら別に問題ないのですが、そこに派閥が生じ、争いが生まれていきました。「わたしは○○派」とか、「わたしはだれ誰につく」とかそういうことがあったそうです。

 そしてもう一つは、信徒の中で特別な賜物、コリントでは「異言を語る」というものでしたが、その特別な賜物を持っていると主張している人たちがおごり高ぶっていったという問題です。この二つの問題、わたしたちには今、どのように聞こえるでしょうか。

 パウロは手紙の中で、キリストの体である教会について語ります。教会を作り上げていくのは信徒です。信徒とは何か。祈祷書の中の教会問答にはこのように書かれています。

 キリストとその教会を表し、どこにいてもキリストを証し、与えられた賜物によって、この世でキリストの和解の業を遂行し、教会の生活と礼拝と運営に責任を負う者です。

 しかしわたしたちは、一人ひとり違います。神さまからいただいた賜物も違います。「あなたもわたしと同じようになりなさい」というのは、そもそも無理なんです。だって牧師ですら、みんなそれぞれ違うわけですから。

 わたしは聖公会のよさの一つに、牧師に幅があるというがあると思います。幅があると言っても性格的なものではなく、神学的な考えや、サクラメントに対する思いなどの幅です。でも違いがあってもいろんな考えを許容し、聖職に按手していく。これはとても素晴らしいことですし、ある意味豊かなことなのだと思います。

 教区主教はその「いろんな考えをもった牧師」を、教会に派遣していくわけです。京都教区では10年以上同じ教会にいる牧師は非常に少ないです。これが多くの単立教会やプロテスタント教会との大きな違いであり、わたしたちが信仰的に豊かに育まれていく大きなチャンスともいえるのです。聖公会では、信徒が牧師を選べない。ネガティブに考えたらそうなるかもしれません。でもだからこそ、信徒も多様な考えを受け入れ、信仰的に成長することが出来るのではないでしょうか。

 聖公会が大切にしている言葉の中に、「多様性の中の一致」というものがあります。人間だれしも、自分と違う考えや人を受け入れることに、抵抗を感じます。でもその異質なものを排除するのではなく、受け入れることをわたしたちは目指しているのです。牧師も1つのピースです。信徒のみなさんもそれぞれ1つのピースです。みんな同じ形ではありません。すべてが違います。でもその一つ一つが組み合わさって初めて、教会となるのです。

 今日の福音書のあと、イエス様は山を下り、エルサレムへと、十字架へと向かわれました。何故でしょう。ペトロは仮小屋を3つ建てましょうと進言しました。このままここにとどまりましょうと言いました。

 十字架に向かわないで欲しい。栄光を山の上で現したままでいてほしい。自分たちも山の上にいたい。栄光にあずかりたいと思う人がいれば、山の上まで来たらいいじゃないか。いろんな思いがあったでしょう。でもイエス様は山を下りました。エルサレムへ向かいました。

 それは、わたしたち一人ひとりを愛しておられるからです。神さまの大きな愛を伝えないといけない。直接、人々の間に立ち、手を触れ、肩を抱き、「神さまはあなたを愛している」、「あなたのことをとっても大切に思っている」と語りながら、わたしたちが生きるために山を下り、十字架に向かわれたのです。

 「愛」、使徒書の後半部分で愛について語られました。愛ってなんだろうな、いつも思います。先日息子が、1000ピースのジグソーパズルを買いました。結構大きなものです。すべてのピースの形は違っていました。わたしたちと同じです。別便で、二つのものが送られてきました。フレーム、そして「のり」でした。ジグソーパズルは一つ一つのピースのデコとボコがくっついて、一つの大きな形を作り上げます。そしてそこには、お互いをくっつける「のり」が塗られます。

 この「のり」こそが、愛なのではないでしょうか。隣の人の出っ張りを受け入れる愛。隣の人のくぼみに手を差し伸べる愛。その小さな一つ一つのピースが、お互いの働きの中で、神さまから与えられた愛によってつながっていく。それこそが教会であり、そこに神の国が生まれていくのだと思います。

 今日、奈良基督教会では堅信受領者総会、いわゆる信徒総会がおこなわれます。教会の働きについて、一緒に考えていきましょう。正解は出ないかもしれません。一人ひとりの思いは当然違います。

 でも、だからこそ教会は、神さまの目に良しとされ、神さまの祝福で満たされる場所となるのではないでしょうか。様々な人たちが手を取り合って、キリストの体を作り上げる。みんなが同じになる必要はない。そして手を取り合う相手は、ここにいる人たちだけではありません。

 イエス様と共に山を下り、たくさんの人たちと神さまの愛によって結び付けられましょう。そこに本当の教会が生まれるのではないでしょうか。