「わたしたちの贈り物」
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マタイによる福音書2章1~12節
昔の人たちは聖書の物語を子どもたちに伝えていくために、いろいろな尾ひれを付けていきました。子どもたちが身近に感じるように、脚色と言ったら語弊があるかもしれませんが、わかりやすいようにしていきました。たとえばこの占星術の学者たち、彼らにはいつの間にか名前が付けられています。黄金を持っていく人はメルキオール、乳香を持っていく人はバルタザール、そして没薬を持っていく人はカスパールと名付けられました。
そしてその人たちが登場する物語が生まれていきます。今日はその物語の一つを紹介したいと思います。「クリスマスのおくりもの」という絵本です。
登場するのは、バルタザールです。彼はある晩、見たこともないような大きな星が輝いているのを見つけます。そしてその星こそ、神さまの子、救い主が生まれたしるしだと知ります。
バルタザールはすぐにラクダを用意し、贈り物を準備して星が輝く方向を目指して旅に出ます。家の中でそのさわぎを聞いていたバルタザールの息子、イレーネスは、父親と同じように救い主を拝みたいと思いました。そして父親の後を追おうと考えます。そのために、自分も何か贈り物を持っていくことにします。彼が見つけ、手にしたのは、3つの宝物でした。ボール、絵本、そして子犬のプルートンです。イレーネスにとってはすべてが大切な宝物です。彼はそれらを持って、父親を追いかけます。
ところがイレースは、いろいろな人と出会っていきます。いじめられている女の子がいました。彼女にはボールをあげて、友達と遊べるようにしてあげました。病気のおじいさんには世界中のことが書いてある絵本をあげて、旅をしている気分を味あわせてあげました。足の悪い男の子には子犬のプルートンをあげて、一緒に遊べるようにしました。
女の子も、おじいさんも、男の子も、とても喜びました。そしてイレーネスは旅を続け、ようやくイエス様がお生まれになった場所まで来ました。でもイレーネスの手には、何も残っていません。大切にしていた宝物、救い主におささげしようと思っていた贈り物は、もう手にはありません。
赤ちゃんのお母さんマリアさんは、イレーネスからここに来るまでの間に起こったことを聞きました。最初は贈り物をもっていたこと、でもそれをみんなにあげてしまったこと、だから赤ちゃんには何もあげられないこと。その話をじっと聞いていたマリアさんは、にっこりと笑って言いました。「イレーネス、ありがとう。あなたはたくさんの贈り物をしてくれました。それはあなたの優しい心よ」。そう言って喜んでくれました。
三人の博士さんは、黄金、乳香、没薬という宝物を携え、イエス様がお生まれになった場所に向かいます。羊飼いたちとは対照的です。羊飼いたちは何も持っていなかったのに、彼らは持っていました。羊飼いたちは突然主の天使たちに救い主の誕生を知らされましたが、博士たちは自分たちで星の動きを調べて、自分たちで救い主のいる場所を探し当てました。
あなたは博士、羊飼い、どちらに共感できるかと聞かれると、わたしは羊飼いに共感できると答えてしまいます。わたしの手にはお金も、油も、薬もない。彼らが持っていたのは、それはそれは高価なものだったでしょう。でもわたしにはないのです。何をささげていいのかわからないのです。だから、三人だけでは気が重いのです。黄金、乳香、没薬、そのような高価なものではない様々なささげものをも、イエス様はきっと喜ばれるはずだと、わたしはそのように思うのです。
ある幼稚園では、クリスマスページェントで歌う歌の中に、このようなものがあります。ページェント、降誕劇の中で、大事そうに贈り物をもって博士さんが一人ずつ登場していきます。
そしてそれぞれ、歌いながら赤ちゃんイエス様の元に進んでいきます。わたしはこの黄金を、わたしはこの乳香を、わたしはこの没薬をと歌いながら、贈り物をささげ、深々とお辞儀をして舞台上に上がっていきます。ここまでで3節が終わります。でも歌は終わりません。その続き4節を全員で歌うんですね。「わたしも僕も、イエス様に、おささげしましょう この心」と。わたしたちの手には、目に見えて素晴らしいものはないかもしれません。でもこの心があります。この心をイエス様におささげする、それを神さまはきっと喜んでくださるのです。
心をささげるって、どういうことだろうと思われるかもしれません。以前にもお話ししたことがあるかもしれませんが、ある方のところに訪問に行ったときに、こんなことを言われたことがあります。「もうこの年で、教会にもなかなか行くことができなくなって。もうわたしには、何にもできないんです」。
わたしはそう言われると、こう答えます。「祈ってください」って。そしたらこう言われます。「でも、祈ることしかできないですよ」って。そこでこう言います。「祈ることしか、ではなくて、祈ることができるんです。それって、一番大きなことなんですよ」と。
どれだけ祈っても、目に見えて減っていくものは何もありません。高価な贈り物をする博士よりも、たくさんの献金をする人よりも、実際に困っている人のために動く人よりも、教会のために働く人よりも、劣っているように感じてしまいます。「祈ることしか」、そのように思ってしまいます。
でも祈りの中で使う時間、祈りに向ける思い、そして誰かのために祈る心、その一つ一つを神さまは喜ばれ、受け入れてくださいます。どれがいい、どれが劣っているという話ではないのです。あなたが今、できることをする。そのことを神さまは祝福なさるのです。
黄金がなくてもいい。遠い東の国から星を目当てにはるばる来なくてもいい。わたしたちの思いを、心を、祈りを、神さまは豊かに用いてくださいます。そのことを心に留めてまいりましょう。
2022年が始まりました。わたしたちにできることは、わたしたちの目にはちっぽけなものかもしれません。しかし神さまの目には、素晴らしい働きであることを覚えていきたいと思います。この一年、神さまからの豊かなお恵みが皆さまに与えられ、皆さまが大きく用いられますよう、お祈りしております。