2022年4月24日<復活節第2主日>説教

「心の鍵が壊されるとき」

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 ヨハネによる福音書20章19~31節

 イースターおめでとうございます。先週の復活日は、110名を超える出席者があって、聖餐式も礼拝後の祝会もできなかったけれども、実に3年ぶりににぎやかな礼拝になったと聞きました。素晴らしいことです。礼拝堂が大勢の信仰の友で溢れかえり、初めて来た人も紹介しきれないほどたくさんおられ、「洗礼受けるにはどうしたらいいんですか?」なんて質問が飛び交い、子どもたちがわいわい走り回る。聖霊が目に見えるかのように降り注ぎ、神の国の先取りであることを肌で感じ、今ここにイエスさまが共におられると確信できる。これこそ理想的な教会のように思います。

 でも、本当にそうなのでしょうか? わたしたち人間は目に見えてようやく安心し、幸せな気持ちになります。しかし、今日読まれた福音書にあるイースターの物語は、わたしたちにちょっと違うことを教えてくれるのです。

 もう一度聖書を見てみましょう。「その日、すなわち週の初めの日の夕方」というのは、イエスさまがよみがえられたその日、復活日の夕方のことです。弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。彼らはイエスさまが復活されたことをまだ知りません。ぼろぼろになるまで殴られ鞭打たれ、衣服をはぎ取られて茨の冠をかぶせられた主は、両手両足を釘で木に打ち付けられ、さらし者にされて殺されたのです。自分たちが彼に従っていたと分かれば、間違いなく同じ目に遭わされます。それは恐怖です。でも、弟子たちにはそれ以上に大きな恐れがありました。自分たちがイエス様を見捨てて逃げてしまったというこの上ない罪悪感です。このダブルパンチを喰らい、大きな恐れに捕らわれた弟子たちは、家の戸に鍵をかけて中で身を寄せ合い、ぶるぶると震えていました。そこに突然、イエスさまがどこからともなく現れ、彼らの真ん中に立たれたのです。そして、言われました。「あなたがたに平和があるように。」ヘブライ語でシャロームといって、これはごく普通の挨拶の言葉です。けれども、このシャロームが意味するのはただの平和ではなく、神さまがともにおられることを知ることによって得られる平和、平安のことです。昔わたしたちが使っていた口語訳聖書はただ一言、「安かれ」と訳していました。その一言で「神さまがここにおられる、だから大丈夫、安心しなさい」を意味したのです。

 そうです、ここでわたしたちが気づきたいのは、主イエスは、わたしたちがいつもハッピーでにぎやかで、互いを思いやり、喜びにあふれるところにしかおられないのではないということです。もちろん、そこにもおられるには違いありません。けれども、目に見える喜びによって、本当に大切なことがかえって置き去りにされてしまうことがあるかもしれません。目に見える喜びよりも、もっともっと大事なのは、主は、わたしたちが罪の意識にさいなまれ、孤独を感じ、誰も自分を必要としていない、愛されていない、自分なんていてもいなくても同じだ、何をやっても駄目だ、もう消えてしまいたいと自分の心に鍵をかけ、体操座りをしてうずくまっているわたしたち一人ひとりの心の中に突如現れ、「大丈夫、わたしはあなたとともにいる」と言ってくださる事実です。

 事実。その事実をわたしたちはどのように知りうるのでしょうか。昨日の朝、ちょうどここまで原稿を書いたとき、わたしの電話が鳴りました。父がお世話になっている特別養護老人ホーム、菰野聖十字の家の担当ケアマネージャーからでした。「2,3日前よりお父様の気持ちが落ちており、ご本人より気持ちを安定させる薬を増やしてほしいという訴えがありましたので、主治医に相談しています。主治医の判断により、薬を増やしてもよろしいですか?」ということでした。わたしは尋ねました。「父の言葉を教えていただけますか」。「死んでしまいたいとおっしゃっておられます。」

 涙が溢れてきました。88歳の父は、自分の体が思うように動かなくなってから、鬱に苦しむようになりました。死にたい、消えたいと言うようになったのも今始まったことではありません。あんなに信仰深かったのに、聖書や神さまの話をするのも嫌がるようになりました。今すぐにでも手を握りに行ってあげたい、そう思いますが、コロナ禍で面会も許されないのです。わたしは、神さまに怒りをぶつけました。「あなたは、鍵がかかっている弟子たちの家に入り、安かれと言われ、弟子たちの心から罪、咎、憂いを取り除き、彼らを死の恐れから解放されたじゃないですか。こんなに願っているのにどうして父のところには行ってくださらないのですか?なぜですか?」そう言って泣きながら祈りました。

 しばらくたって、娘が起きて部屋から出てきました。土曜日の朝、ちょっとやそっとの物音で起きてくる子ではありません。そんな彼女がそうっと、何も言わずに私のところにきて、後ろから抱きしめてくれたのです。すーっと私の心の中から憑き物が落ちていくような感じがしました。はっとして気づきました。イエスさまがおられる、今ここに、と。後から聞くと、娘はわたしのすすり泣く声に目を覚まし、また犬に嚙まれたんだと思ったのだそうです。でも見たら噛まれた様子もないので、よくわからないけど、大丈夫だよ、よしよしってしてあげようと思ったと。ちょっと笑ってしまいましたけど、そこにわたしは聖霊の働きを感じました。

 すぐに、「そうだ、大丈夫だ」と確信しました。そして、父の施設に電話をかけ、父と電話で話したいとお願いしました。すぐにつないでくださり、また泣きそうになりましたが、極力明るい声で言いました。「お父さん、久しぶり、元気?」父は、答えました。「あかんわ。調子が良くなくてね。ちょっと頭がおかしくなっているみたいで。いつも気にかけてくれてありがとう。お祈りしててな。」「うん、お祈りしてるよ。神さまがいつも一緒だからね。安心してね。」「うん、わかった。ありがとう。バイバイ。」それだけの会話でした。その後、看護師さんが、「いつでも電話つなぎますので、遠慮なくかけてください」とやさしく言ってくださいました。イエスさまの「大丈夫」の声が聞こえた瞬間でした。

 イエスさまは、わたしたち一人ひとりのカギのかかった心の中に入ってきてくださいます。いろんな人を通して、いろんな形となって。ほとんどの場合、目には見えません。そして、すぐには分からないのです。わたしたちは残念ながら、みんな、今日の福音書のトマスのように、見ないと信じることのできない弱い人間です。でも、祈れば必ず、聖霊が助けてくださいます。見ないのに信じる人となれるように。復活の主は、泣いているあなたのそばにおられます。そして、「安心しなさい、大丈夫」と言ってくださいます。