2024年6月9日<聖霊降臨後第3主日(特定5)>説教

「わたしのきょうだい」

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 マルコによる福音書3章20~35節

 今日の福音書には、二つの物語が載せられています。前半が「ベルゼブル論争」、そして後半が「イエスの母、兄弟」です。

 ベルゼブルというのは悪霊の頭と呼ばれているもので、「ハエの王」とも呼ばれます。今日の場面で律法学者たちは、イエス様が悪霊を追い出したり病気を癒やしたりするのを見て、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と騒ぎ立てました。それに対してイエス様は、「どうして悪魔同士で、内輪で争う必要があるんだ。そんなのおかしいじゃないか」と一蹴するわけですが、今日の場面、ポイントはそこよりも他のところにあります。それは後半の「イエスの母、兄弟」に関連するところです。

 前半の「ベルゼブル論争」のときに、すでにイエス様の家族は登場していました。そのころすでに悪霊を追い出したり、病気の人を癒やしたりしていたイエス様のうわさは、家族の耳にも届いていたでしょう。みなさんだったらどうでしょうか。近所の人だったらまだしも、ご自分のごきょうだいやお子さんが何か驚くような働きをし、人々の尊敬を集めていると聞いたら、鼻高々になって周りの人に自慢するのではないでしょうか。

 ところがこの場面、イエス様のお母さんであるマリアと兄弟たちがとった行動は違いました。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」と書かれています。そしてその理由は、「あの男は気が変になっていると言われていたから」ということです。

 何回かお話していますが、わたしの実家はキリスト教ではありません。ですから2010年にわたしがウイリアムス神学館に入学したときには、かなり驚いたのではないかと思います。その時のことはあまりよく覚えていないのですが、というよりもういい年だったので、勝手に入学することや牧師になることも決めてしまってちょろちょろっと事後報告をしたような、そんな感じだったのかな、と思います。わたしの実家はあまりお互いのことを干渉しないので、お正月やお盆に実家に集まったときも、家族は面と向かってキリスト教とか牧師とかいったことを聞いて来ることもなかなかなく、夕食時、みんながリラックスしたタイミングでようやく誰かが聞くといった感じでした。

 そして牧師になってしばらくしてからでしょうか。家族の一人がわたしに聞いてきました。「牧師って普段何してるの?」、「平日は幼稚園、土日は教会のことかな」。「ふ~ん」。そしてしばらくしてから、また聞きます。「教会のことって、どういうことするの?」、「まあ、一番は礼拝かな」。「ふ~ん。じゃあ礼拝で、どんなことをするの?」、「お祈りとか、お話しとか」。「ふ~ん、お話しって誰がするの?」、「まあ、僕かな」。「えっ、あんたが!」。驚きの表情を見せながら、さらにいろいろなことを聞き、最後には必ず、「えっ、あんたが!」と驚く。

 そんな会話が繰り広げられたわけですが、でもその反応も不思議ではないわけです。2010年にウイリアムス神学官館に入ったときには、わたしは40歳になっていました。その3年前から礼拝のお手伝いをしたり、通信の神学教育を受けていたりはしたものの、30半ば過ぎまではそんな気配すら見せていなかったのです。たとえ気配がなくても普段から教会に熱心に通い、信仰深く、人に優しく、聖人君主のような生き方をしていたらまだ理解できるでしょう。しかし自分で言うのもなんですが、まあフラフラフラフラ、仕事もコロコロと変え、いつの間にか引越しして居場所も知らせず、帰って来たと思ったらお金がないと言い、お金を渡したらマンガを買ってくる。そんな人間が突然牧師になったと言い、聞けばいろんなことをやっているという。そりゃあ、「えっ、あんたが!」となるのは致し方ありません。

 さてイエス様の話に戻ります。彼は大工であったヨセフの子として育ちました。聖書には12歳の頃、神殿で迷子になったイエス様の記事があるだけです。それ以外、子どもの頃や20代になにをされていたのかは、記録に残っていません。記録に残っていないと言うことは、多分書くほどのことがなかったということでしょう。ということは、普通の少年、青年として生きて来られたのだと思います。親を悲しませたこともあったかもしれません。いたずらして妹を泣かせたこともあったかもしれません。普通に大工の手伝いをし、近所には友達も多くいた。そう想像できます。だから家族は戸惑うわけです。自分たちの知っている「イエス」ではなく、みんなが崇める「イエス様」になってしまった。「えっ、あんたが!」とまではいかなくても、受け入れられないのです。信じられないのです。

 今日の使徒書にこんな言葉がありました。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。コリントの信徒への手紙二4章18節の言葉です。

 目に見える「肉親」という関係性に縛られたら、イエス様の母マリアでさえ、目が遮られてしまうのです。本当のものが見えなくなってしまう。自分の思い込みや経験に頼り、本当に目を注ぐべきことから目を背けてしまうのです。

 先ほどのコリントの信徒への手紙は、お葬式のときに読まれる箇所です。わたしたちは実は、愛する方を天に送るときに、見えないものに希望を託しています。もし見えるもの、おもに肉体などがそうでしょうが、その見えるものに固執しまうのではなく、見えない神さまにすべてを委ねなさいということなのです。

 イエス様は、わたしたちの感覚ではとても冷たく思える言葉を掛けられました。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」、その言葉を聞いて、マリアやイエス様の兄弟はどう感じたでしょう。でもこの言葉は、イエス様は目に見える絆、血縁とでもいいましょうか、それよりも、目に見えない絆を良しとされた、と捉えることができるのです。イエス様の周りには、たくさんの人が集まっていました。イエス様の口から出る言葉に胸を躍らせ、イエス様のなさる奇跡の業に驚き、そしてその背後で働く神さまの愛に気づかされる。

 その一人一人をイエス様は、「わたしの母、わたしのきょうだい」と呼ばれ、その人たちこそ、神さまの御心をおこなう人だと語られるのです。

 わたしたちの信仰は、どうでしょうか。わたしたちにとって見えるものとは、この世で大切にされているものだと思います。お金、家族、仕事、そのような様々なものに目を向けるときに、神さまの愛は曇らされ、本当に大切なものに目が向かない、イエス様を受け入れることができなくなってしまうのかもしれません。

 イエス様はわたしたちに、そうではない、家族として共に歩むことを望んでおられます。神さまのみ心をおこなうために、目に見えないものに目を注ぎ、祈りを通して神さまの声を聞き、歩んでまいりましょう。その歩みを、神さまは心より望んでいます。