2020年5月10日<復活節第5主日>説教

「心を騒がせるな」

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ヨハネによる福音書14章1~14節

 わたしたちは今日も、教会で一緒に礼拝することができませんでした。最初の予定では、休止は5月3日まででした。しかし今日もまた、礼拝堂はガランと静かなままです。これがいつまで続くのか、正直言ってわかりません。

 でもこの状況は、ある意味イエス様がわたしたちに伝えてこられた約束と同じなのかもしれません。今日の福音書の箇所、ヨハネによる福音書14章は、イエス様が十字架による死をまもなく迎えるその時に、弟子たちに向けて語られた説教です。

 イエス様はご自分の十字架のあと、弟子たちが散り散りバラバラ、逃げてしまうことをご存じでした。いくらイエス様が十字架のあと、三日の後に復活すると言われていても、弟子たちは逃げ出してしまいました。でもそのことをよくわかっていながら、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」と語られるのです。

 この「心を騒がせるな」という言葉は、今までずっと大切にされてきたことでしょう。イエス様の遺体が墓から消えてしまって真っ青になった女性たちにも、復活を信じることができずに家じゅうの扉にカギをかけて震えていた弟子たちにも。さらにはイエス様を実際に見るまで信じないと言ったトマスにも、エマオに行く途中で不安を語り続けた二人の弟子にも。そしてこの言葉は、もっともっと、たくさんの人を通して大切にされていきます。

 あと10日あまり、5月21日には昇天日を迎えます。さらに10日たつと、5月31日は聖霊降臨日です。イエス様は天に昇られ、約束の聖霊を送り、そして再び戻ってくると言われました。わたしたちは2000年もの間、イエス様が再び来られることを、心を騒がせながら待ち続けています。

 パウロの手紙を読んでも、人々はイエス様が来るのを今か今かと待っていました。「心を騒がせるな」というイエス様の言葉を胸に抱き、「み国が来ますように」と祈り続けたのです。

 「み国が来ますように」、この言葉をタイトルとした小冊子が、日本聖公会管区事務所から届けられました。奈良基督教会の方には先日の郵送物の中に入れさせていただきました。他の教会の方で見たい、という方は日本聖公会管区事務所のホームページからダウンロードできるようになっています。

これがどういうものなのか。しおりの説明にこうあります。

 「Thy Kingdom come(み国が来ますように)は、昇天日から聖霊降臨日にかけて行われる、世界的な祈りの運動に付けられたタイトルです。この二つの祝日は以前からも常に、み国の到来への期待と希望に満たされてきました。

 私たちの主イエス・キリストは天に昇られた時、使徒たちがその証人となれるよう聖霊の賜物を約束されました。最初にイエスに従った弟子たちがひたすら祈ることによって、その約束が成就されるのを待ったように、これらの日々を特別なものとして祈るよう、新しい呼びかけがキリスト教会になされているのです。

 福音書で私たちがくりかえし目にするのは、友人、愛する人、家族や子どもたちを、いかにしてイエスのところまで導いていけるか、ということです。この期間の私たちの祈りは、これにこそ焦点を合わさなければなりません。具体的には個別の 5 人を神のもとへ導くことであり、彼らがイエス・キリストと出会えるよう祈るのです。」

 正直、最初にこの言葉を読んだときに、違和感を覚えました。なぜ時期を決めないといけないのか。そしてどうして5人だけなのか。本当はいつも、わたしたちは礼拝に来て祈っているはずです。「み国が来ますように」と。わたしたちはなぜ教会に来るのか。その理由は簡単です。神の国の到来を待ちわびているからです。そしてすでにわたしたちの間にあふれている神さまの愛を感じ、そしてそれを一人でも多くの人と分かち合うためです。「み国が来ますように」、それはわたしたちがいつも持ち続ける思いであるはずです。

 しかし教会に来るのは、役割があるから、会合があるから、奉仕の当番に当たっているから、毎週のお務めだから。毎週決まった人のとなりに座り、主の平和とあいさつして、毎週同じ人と一緒に食事をし、おしゃべりをして帰っていく。もしそれがわたしたちにとって、教会というものであったとするならば、どうでしょうか。

 それもある意味では大切なことかもしれない。ただそれだけでいいのでしょうか。それが本当に神さまのみ心に沿ったものなのでしょうか。そう考えたときに、この「み国が来ますように」という祈りは、今のわたしたちにとって、とても必要なものだと思えるのです。

 イエス様は約束されました。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」と。その時が来るまで、わたしたちは心を騒がせず、神さまを、そしてイエス様を信じ続けるのです。

 さらにイエス様は言われます。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と。イエス様を通る、それはいったいどういうことなのでしょうか。わたしはこう思います。イエス様を通るということ。それはイエス様に倣って生きていく、イエス様のみ跡を進んで行くことだと。自分の十字架を背負い、イエス様に従うそのときに、わたしたちはイエス様を通り、み国へと導かれていくのだと思います。

 考えてみますとイエス様は、同じ場所でじっとして、弟子たちとだけ会話されていたのではありませんでした。様々な町や村を巡り歩き、人と出会い、神の国を宣べ伝えられた。イエス様が出会った人たち、それはどんな人たちだったのか。病に侵されていた人。悪霊に取りつかれていた人。人々から罪人だとレッテルを貼られていた人。徴税人。娼婦。外国人。触れると汚れると言われていた人を抱きかかえ、一緒に交わってはならないと言われていた人と食事をする。

 それがイエス様の歩まれた道であるならば、わたしたちはどう歩むべきなのでしょうか。誰の横に立ち、誰と共に食事をし、そして誰のために祈るべきなのか。「み国が来ますように」、その祈りは、わたしたちの心からの願いとなっているのでしょうか。

 心を沈め、神の国をまず求めなさい。そのように今、この時を、神さまはあたえてくださっているのです。様々な自由が奪われている毎日です。しかしその中において、神さまはわたしたちに道を示してくださいます。

 神さまのみ心が、この世界におこなわれますように、祈り続けてまいりましょう。