2019年9月8日〈聖霊降臨後第 13主日〉説教

主イエス・キリストからの恵みと平和が
 フィレモン1:1-3

  司祭 ヨハネ 井田 泉
  奈良基督教会にて

「1:1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わた したちの愛する協力者フィレモン、2 姉妹アフィア、わたし たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。 3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵み と平和が、あなたがたにあるように。」

 今日朗読された使徒書は「フィレモンへの手紙」でした。これはパウロの書いた手紙の中でもっとも短いもので、その内容はとても個人的なものです。今、パウロは迫害を受けて獄中にありながら、フィレモンという人に宛てて手紙を書いています。パウロはどうしても自分の願いをフィレモンに聞き入れてほしいのです。その願いというのは、元々フィレモンの奴隷であっ たのが脱走したオネシモという人を送り返すから、愛と信仰を もってオネシモを受け入れてほしい、という内容です。

 詳しいことはわかりませんが、奴隷オネシモは何かがあって フィレモンのところから脱走した。フィレモンは憤っているは ずです。そのオネシモは捕らえられて、獄中でパウロと出会い、主イエスを信じるようになった。そして主人のフィレモンもか つてパウロによって主イエスを信じるようになった人です。それですから、何があったにせよ、今やオネシモはイエスを信じてまっすぐに生きる者となったのだから、オネシモを奴隷としてではなく、主にある愛する兄弟として受け入れてほしい、というのがパウロの願いです。オネシモのこれからの人生のためにも、またフィレモンの信仰のためにも、パウロは心から祈ってこの手紙を書いたのでした。
 今日はこれ以上は手紙の中身に立ち入らず、手紙の冒頭にこめられたパウロの思いに近づいてみたいと思います。

 まず手紙の冒頭です。差し出し人を明記しています。
「1:1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから」
 ここをギリシア語の聖書を開いて読んで驚きました。
 「パウロ、囚人」Παῦλος δέσμιος (パウロス デスミオス) という言葉から始まっているのです。パウロが差し出し人であ る自分のことを言う場合、多くの手紙では「パウロ、使徒」と 書いています。自分は神さまによって召され福音を伝える使命を与えられた者だ、ということを冒頭に記すのです。けれどもこのフィレモンへの手紙では「パウロ、囚人、キリスト・イエスの」から始まっています。フィレモンに対する個人的な依頼 の手紙ですから、「使徒」などとあらためて言う必要はなかったのかもしれません。「獄中にあるこのわたしが特別に頼みがあって書いているのだからそれを分かってほしい」という思いでしょうか。
 日本語らしく言えば「キリスト・イエスの囚人パウロ」、元の 単語の順番で言えば「パウロ、囚人、キリスト・イエスの」。 この手紙を書き始めるとき、パウロはあらためて自分がイエスさまによって捕らえられた者「囚人」であると強く意識したのではないでしょうか。そしてイエスに捕らえられたがゆえに福音を伝道し、伝道したがゆえに迫害を受けて現実に投獄されて「囚人」になっている。「囚人」には二重の意味が重ねられているようです。
 
 ところでわたしたちは、皆さんはイエスさまに捕らえられた者でしょうか。それとも、イエスさまを探し求めている者でしょうか。そんなことを思ってもみず、今に至っているのでしょうか。これまでの思いがどうであれ、イエスさまは皆さんを招かれたのです。ご自分のもとに引き寄せられたのです。そしてわたしたちを愛されるがゆえに、イエスはわたしたちを洗礼をとおしてご自身のものとしてしまわれたのです。この道には苦労が伴う。しかしそれにはるかにまさる祝福があり、安心があります。わたしは永遠に主のもの──この恵みを経験したいと願います。

 今度は宛先を確かめましょう。
 「わたしたちの愛する協力者フィレモン、2 姉妹アフィア、 わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会 へ。」
 手紙の宛先のフィレモンのことを「わたしたちの愛する協力者」と呼んでいます。かつてパウロはフィレモンの信仰を育てた。後には神さまと教会のために一緒に苦労して働いた。それを思うとき、「愛するフィレモン」という呼びかけが起こってき ます。愛するあなたにお願いがある。
 「姉妹アフィア」とはだれでしょうか。フィレモンの妻ではないかとも言われています。「姉妹」という言葉の中に、信仰によって結ばれた親しみが込められています。そして「わたした ちの戦友アルキポ」。これはフィレモンとアフィアの息子ではないか、という説もありますが、何とも分かりません。ただ「戦 友」と訳された言葉は「一緒に戦う者」という意味なので、パ ウロとアルキポたちはあるとき、「戦う」と言わずにはおれないほどの悪あるいは敵対者に直面し、非常な苦労を共にした、ということでしょう。このようにフィレモン、アフィア、アルキ ポという3人の名前を順に挙げていくとき、かつて福音のために 共にした苦労と喜びがよみがえってくるのです。

  最後に「ならびにあなたの家にある教会へ」。フィレモンは自分の家を開放して、教会として提供していた。特別な建物も組 織もない。ただイエスを信じた数人、あるいは数家族が祈りと交わりのために集まっている。これは教会の原点です。 昔そういうことがあった、というばかりではありません。わ たしたちの大和伝道区には百済基督教会があります。わたしは 1 年間そこを管理していました。かつてあった礼拝堂は老朽化し て取り壊された。今、礼拝は3つの家庭の回り持ちです。畳の部 屋に二つのテープルを並べて 10 人くらいでそれを囲んで聖餐式 をします。何が中心にあるか。一緒に祈りたい、礼拝したいという思いです。これが教会の原点だとつくづく感じたものでし た。

 さて手紙の差し出し人と宛先を書いた後、パウロは祈ります。 「1:3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの 恵みと平和が、あなたがたにあるように。」 元の言葉を見ると「恵みがあなたがたに」で始まっています。人を、教会を生かし支え、導くのは神の恵みです。人にも教会にもさまざまなことがあります。議論が必要であり、また忍耐も必要です。けれどもわたしたちには何が第一に大切か。神の恵みをいただいていることです。無条件の、限りない神の愛の いのちがフィレモンとその家の教会に振り注ぐように。それを 心と体で感じるように。あなたがたに神の恵みが満ちるように。

 昨日、親愛幼稚園の9月の親子礼拝をここで行いました。月の 1 回の親子礼拝のたびに、その月のお誕生日の子どもたちを前に並ばせて「お誕生日おめでとう」を言い、そのあとお誕生日の子どもたちは前に向きを替えて、わたしがお祈りをします。その後ひとりひとりの子どもに手を置いて、「神さまの恵みがあり ますように」と言うと、全園児が大きな声で「アーメン」と答えてくれます。
 神の恵みを祈ることは何かを生じさせるはずです。恵みは生きて働くのです。

 そして「平和」。イエス・キリストが呼びかけ、実現してくださる平和があなたとあなたの家の教会にあるように。かつて復 活のイエスさまがおののく弟子たちに現れて「あなたがたに平和があるように」と言われた。そのイエスさまの祈りがここにこだましています。

 フィレモンの手紙の今日は最初のところだけを読みました。そこから何をわたしたちは受け取るのでしょうか。
  第 1。わたしたちも祈られています。神の恵みと平和がわたしたちに注がれるように、だれかに祈られています。主イエスが それをわたしたちに満たそうとしておられます。
 第 2。わたしたちもこのときのパウロがオネシモのこれからのために、またフィレモンのために心を砕いて祈って手紙を書いたように、わたしたちも人のために心を砕く者でありたい。
 第 3。わたしたちも祈られている者として、人のために恵みと平和を祈る者となる。

 祈ります。
 神さま、かつてパウロが祈ったように、わたしたちにもあなたの恵みと平和を注ぎ、満たしてください。聞き慣れた言葉としてわたしたちがその言葉の傍らを通り過ぎてしまうのではなく、あなたの恵みと平和が、事実わたしたちの中に浸透しますように。わたしたちが神さまに愛されている者であることを、新しく知ることができますように。そしてわたしたちもまた、人のために恵みと平和を祈り求める者としてください。主イエ ス・キリストによってお願いいたします。
 アーメン