2022年8月21日<聖霊降臨後第11主日(特定16)>説教

「狭い戸口」

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 ルカによる福音書13章22~30節

 わたしたちは考えます。教会の門はいつも開かれているべきだと。どうしてそう考えるのでしょうか。たくさんの人を招き入れたいから。それもあるでしょう。それと同時に、自分が入ろうとするときに、門が閉まっていたら嫌だからです。悲しいからです。今、この話は、物理的な、目に見える門のことだけを言っているのではありません。わたしたちはクリスチャンとして、いずれ神さまのみ許に迎えられることになると思います。しかしそのときに、門が閉まっていたら、困るのです。追い出されたくないのです。

 今日の福音書の物語の中で、イエス様たち一同はエルサレムに向かっていました。その道中で、ある人がイエス様に聞きます。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。この人はどういう答えを期待したのでしょうか。「救われる人は多い」と言われたら、ホッとするのでしょうか。少しぐらい罪があったとしても、おこぼれで自分も救いの中に入れてもらえるかもしれない。だからイエス様、「救われる人は多い」って言ってくださいと思っていたでしょうか。

 それとも「救われる人は少ない」と言って欲しかったのでしょうか。彼はエルサレムに向かうイエス様に従っていました。だからそこらへんにいる人たちよりも、自分は救いに近いはずだ。たとえ救われる人が少なかったとしても、自分はきっと選ばれるだろう。変に誰もが救われるよりも、その方が居心地もいいかもしれないし。

 みなさんだったら、どう思われますか。救われる人、多い方がいいですか。少ない方がいいですか。多分、多くの方が思われると思います。そりゃあ、多い方がいいよって。まず自分が入れるかどうかも大事ですが、それと同時にいろんな人の顔が思い浮かぶのではないでしょうか。あの人にも入って欲しい。この人もお願いと。

 この人が質問をした後、たくさんの人たちの視線がイエス様に集まっていたことでしょう。さあイエス様は、この質問にどう答えるのだろうか。みんなが固唾を飲んで見守る中、イエス様はこのように答えられました。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」。

 人の数が多いか少ないかを聞いているのに、狭い戸口から入りなさいって、聞いていることと答えとがちぐはぐだなあと思いますが、これは聖書ではよくあることです。それよりも狭い戸口と言われたイエス様の真意は何なのでしょうか。

 実はここで注意しておきたいことが二つあります。一つは戸口は狭いけれども、人数制限については何も書かれていないということです。狭い戸口さえ選べば、誰もが入れるということなのでしょう。しかしもう一つ注意しておきたいこと、それは「戸は閉められる」ということです。主人が閉めてしまってからでは入ることができないのです。ということは、神さまの思いも大事ですが、ここでイエス様が強調されているのは、「わたしたちの決断」ということなのだと思います。わたしたちが狭い戸口から入ろうとしているのか否か、そして招かれたときに入ろうとしているのか、ということ、わたしたちがどうするのか、というのが大事だということなのです。

 狭い戸口、そう聞いて、わたしは茶室の「にじり口」をイメージしました。「にじり口」とは人がかがんでようやく入れるような、まるで忍者屋敷にあるような小さな入口です。千利休は、茶室の中ではすべての人が平等だということを示すために入り口を低くし、どんなに身分が高い人でも、刀を外し、頭を下げなくては茶室に入ることができないようにしたそうです。聖書の中では、身分云々ということはそれほど関係ないかもしれません。しかし、「持ち物を置いて」からでないと、入ることができないというところ。これは今日の箇所の「狭い戸口」に通ずるところがあるように思います。

 わたしたちの周りには、たくさんの物があふれています。またわたしたちには大切にしているものもあります。お金、土地、名誉、地位、プライド。この前の「愚かな金持ちのたとえ」ではありませんが、それらのものをすべて「自分のものだ」と握りしめたままならば、狭い戸口などには入ることはできないと思います。それどころか、神さま以外の物に目移りし、肝心の神さまから心が離れてしまったならば、その入り口さえ狭さの故に見つけ出すことができないということになるのです。

 狭い戸口、まずその場所にたどり着くために、わたしたちは何をしたら良いのでしょうか。ルカによる福音書9章23節には、このようなイエス様の言葉が書かれています。

 わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

 日々自分の十字架を背負ってイエス様に従う。日常の中で、自分に与えられたことは何なのか、自分は周りの人と共にどう生きるべきなのか、問い続けながらイエス様の背中を見つめ、歩むのです。

 こういうときには、イエス様だったらどうされるだろう。この人のことを、イエス様はどう受け入れるだろう。日々の歩みの中で、常に立ち止まり、イエス様を心の真ん中に迎え入れながら生きていく。

 そのときにわたしたちは、イエス様に従う者となるのです。そしてイエス様は狭い門に、わたしたちを導いてくださいます。たとえわたしたちにとっては大変狭く、窮屈な門だったとしても大丈夫。イエス様がわたしたちの前を歩んでくださいます。先導してくださっているのです。

 イエス様はわたしたちが通れるように、門を広げてくださるでしょう。ゆとりをもった広い門にはならなくても、わたしたちが通るに十分なスペースを確保してくださいます。そのためにイエス様は神さまから遣わされ、わたしたちを導いてくださるのです。

 この神さまのわたしたちへの思いを感じたなら、わたしたちがこの地上で大切に思っているものは、どうでもよくなる。大切なのには違いないけれども、心の真ん中にはイエス様がおられる。それでいいと思うのです。

 イエス様の呼びかけに応じて、イエス様を心に迎える。必要なのは、わたしたち一人ひとりの決断です。その決断を、イエス様は待っておられます。