「神さまの思い」
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ヨハネによる福音書14章8~17節
本日は聖霊降臨日です。聖霊降臨日とはその名のとおり、聖霊が降臨したことを記念する日です。それでは聖霊とは一体何なのでしょうか。まず少しご説明したいと思います。
聖霊とは、キリスト教が信じる父・子・聖霊という三位一体の神の一つです。ニケヤ信経では、聖霊のことを「命の与え主、父と子から出られ、父と子とともにあがめられ、預言者によって語られた主」と唱えます。聖書の中では、まずイエス様の母マリアが聖霊によって身ごもることが告げられます。またイエス様が洗礼を受けたときには聖霊が鳩のように目に見える姿で降り、さらに荒れ野の誘惑の前には、イエス様は聖霊で満たされます。そしてイエス様が天に昇られた後、五旬祭のときに弟子たちは、約束の聖霊に満たされるのです。それが今日の場面です。ではわたしたちと聖霊との間には、どのような関係があるのでしょうか。聖公会では洗礼を、「聖霊の働きによって、わたしたちがキリストの死と復活にあずかり、新しく生まれるための聖奠」だと説明します。さらに堅信式の中で、「この僕に聖霊を満たし、知恵と理解、深慮と勇気、神を知る恵みと、神を愛し敬う心を与えてください」と祈るのです。そして今日読まれた福音書の中にもあるように、ヨハネ福音書では聖霊を、「弁護者」や「真理の霊」と表現します。この聖霊の働きによって、わたしたちと神さまとの間にあった溝は埋められます。そして聖霊の導きによって、わたしたちの歩みは神さまのみ心に沿ったものとされるのです。
とはいうものの、今の説明を聞いて、「そうか、これが聖霊か」とはなかなかならないようにも思います。というのも聖霊は目に見えず、与えられているという実感も得ることが難しいからです。今日読まれた使徒言行録2章1節から11節には、2000年前に約束の聖霊が弟子たちの上に下った様子が書かれていました。そこにはこのように書かれています。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と。炎はわかります。前のロウソクを見ても、炎が揺らめいています。しかし炎のような舌と言われるとどうでしょうか。イメージできるでしょうか。大きな舌、ベロが頭の上にあって、今にも舐め回そうかとしている。想像しただけで気持ち悪いですが、しかしこれは、ある意味シンボル的なものだと考えたほうがよさそうです。
舌と聞いて、まず何を思い浮かべるでしょうか。そのヒントは、使徒言行録に書かれた物語にありそうです。そのときに起こったこととは、弟子たちが霊が語らせるままに他の国々の言葉で話し出したということです。つまり舌とは、言葉を想起させる、思い起こさせるものだということです。旧約聖書には、言葉に関する物語がありました。バベルの塔のお話しです。
昔のことです。神さまが人間を創造した後、人間は数が増え、また知恵もついていきました。アスファルトやレンガをつくることもできるようになり、高い建物なども自由に作りだしたそうです。あるとき、彼らは思いました。自分たちは神さまを超えることができるのではないかと。そして天に届くような高い塔を建てて、神さまを見下そうと考えたわけです。それを御覧になった神さまは、多分半ばあきれておられたと思いますが、彼ら人間の言葉をバラバラにすることにしました。お互いの意思疎通がとれなくなった彼らは、工事を続けることができず、塔を建てるのを諦めました。そして彼らは世界各地に散らされ、それぞれの場所で生きていったそうです。これがバベルの塔の物語です。
今回、聖霊降臨日に起こった出来事は、その逆なんですね。バラバラになっていた言葉が、炎のような舌によって、理解できるものに変えられた。それはつまり、バラバラになっていた人たちをもう一度呼び集める、そのような出来事だったのだということです。旧約の時代、神さまの救いは、神さまの前に正しく、そして清くあり続ける人のみに与えられると考えられていました。だから一生懸命律法を守り、人々は神さまの前に「良い人間」、「正しい人」であろうとしました。しかし神さまの目には、そのような人は一人もいなかったわけです。神さまはそのとき、バベルの塔の時のように、人々が散らされたまま、ご自分の元には到底たどり着くことのできない状況のままでも、全然よかったと思います。なぜなら、それは自業自得だから。人々が泣こうがわめこうが、神さまは痛くも痒くもないはずなのです。しかし神さまは、それはダメだと考えられました。イエス様の誕生、十字架、復活、昇天、そして聖霊降臨のすべての出来事は、わたしたちをもう一度ご自分の元に呼び寄せたいという、神さまの強い思い、神さまのわたしたちへの愛が根底にあるのです。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」、これは今日の福音書に書かれたイエス様の言葉です。別の弁護者というのが、聖霊のことです。聖霊をわたしたちに遣わすことによって、神さまがわたしたちをもう一度呼び集めてくださる。その目に見える形として、わたしたちはこうして教会に集い、聖餐をいただき、そしてそれぞれの地に遣わされていくのです。
よく、聖霊降臨日は、教会の誕生日だと言われます。2000年前聖霊によって一つとなった人たちの集まりが、教会となりました。建物の建築記念日ではありません。そこに集う人たちが聖霊によって一つとなり、他の人と福音を分かち合う。それも分かる言葉で伝えて行く。それが教会の始まりでした。その息吹きを感じながら、わたしたち一人一人も神さまのために何ができるのか、誰に神さまの愛を伝えることができるのか、一緒に考えていきましょう。聖霊という言葉は旧約聖書が書かれたヘブライ語で、「ルーアッハ」と言います。この「ルーアッハ」には「風」という意味もありますし、「息」という意味も持ちます。
神さまは人間を創造されたときに、最後に鼻に息を吹き込まれました。つまりわたしたち人間には、神さまの息が吹き込まれているのです。わたしたちは神さまの息、「ルーアッハ」に生かされているということです。そして神さまはご自分の元にわたしたちを呼び戻すために、聖霊、「ルーアッハ」を送り込まれました。神さまのそれだけの愛が、わたしたちの中に生き、そしてわたしたちを導いてくれるということ、本当にうれしいことだと思います。今日の箇所には書かれていませんが、同じヨハネ14章の中でイエス様はこう約束されます。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。
2000年前、弟子たちの元に炎のような舌という形で下った聖霊は、今もわたしたちに、注がれ続けています。そのことを感じ、歩んでいきましょう。そしてわたしたち一人一人が、キリストという教会の枝として、遣わされて行きますように。わたしたちの働きが神さまの目に良いものとなりますように、祈り求めてまいりましょう。