2023年11月5日<聖霊降臨後第23主日(特定26)>説教

「神さまに喜ばれるおこない」

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 マタイによる福音書23章1~12節

 みなさんは、教会にどのようなイメージをお持ちでしょうか。150年以上前、日本にキリスト教が入ってきたとき、わたしたち聖公会においてはアメリカ、イギリス、カナダの宣教団体がそれぞれの地域で教会を建てていきます。その中で京都教区の教会も建てられていくことになります。そして教会は、さまざまな理由で施設も併設していくことになります。学校や幼稚園、病院や高齢者施設など、教育のためや福祉のために、施設を作っていきます。教育では女性や子どもといった、当時の社会の中で小さくされた人も対象となります。

 教育を通して、キリスト教の教えを伝えていく。それはとても大切なことです。それまで教育を受ける機会が与えられなかった人たちに、学ぶ機会が与えられる。それはとても有意義なことです。その中で、キリスト教は様々なことを伝えていきます。一番大切なものは、「福音」です。神さまはあなたを愛している。神さまはあなたのそばにいるというグッドニュースです。しかしそれ以外のものも、同時に伝えられていきます。それは「道徳」であったり、「倫理」であったりします。

 たとえば幼稚園でもよく歌う歌に、「空の鳥は」というものがあります。「空の鳥は小さくても お守りなさる神さま」という歌詞は、子どもたちに安心感を与えます。ほのぼのした情景が目に浮かんできそうです。ところが、3番の歌詞にこのようにあります。「悪いことは小さくても お嫌いなさる神さま」。どんなに小さなことだって、悪いことはしちゃダメだよ、それは神さまにとって、とっても悲しむことだから。そういうことを教えたいのだと思うんですが、そうなのかな?って思うこともあるんですね。そうではなく、「悪いことは大きくても お赦しなさる神さま」という方が、聖書にはあっているような気がするんです。

 「仲よくなさい」とか、「いい子でいましょう」とか、「ウソはだめだよ」とか、「みんなと同じようにしなさい」とか、ありとあらゆることを「神さまが悲しむから」という理由で押し付けていく。そのようなことになるきらいが、実はキリスト教教育という中にはあるわけなのです。

 これと同じようなことが、実はイエス様がおられたころにも、みられていたようです。ファリサイ派や律法学者というグループが聖書の中には登場しますが、彼らの言動はあまり聖書では肯定的に描かれていません。今日の箇所でも、「彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである」。と強烈に批判しています。さらに、「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」と、彼らの行動をイエス様は糾弾するわけです。

 しかし実際に彼ら、律法学者やファリサイ派がそこまで批判されるような人たちかというと、実はそうでもありません。それどころか、彼らは非常に生真面目に神さまから与えられた律法と向き合ってきました。律法学者は十戒などの大きな決まりをもとに、細かいところ、たとえば安息日に何歩までだったら歩いていいのかなどを、真剣に議論してきました。その細かいきまりは、613にもなったそうです。613、語呂合わせで「無意味」と覚えることができますが。

 そしてファリサイ派の人たちは人々の間で生活しながら、その決まりを守ることを人々に指導していきました。そしてちゃんと守れない人を「罪人」、「汚れた人」とみなして、共同体の中から排除していくということもしていきました。彼らはつまり、人々と神さまとの間に立ち、人々を罪と汚れから守るのが自分たちの使命であると自負していました。自分たちも当然、様々な決まりを守ります。たとえ表面上であったとしても、敬虔深く、神さまの前にへりくだり、正しい者のように生きている彼ら。そんな彼らをしかし、イエス様は批判されているのです。

 イエス様は彼らの何を批判されたのか。彼らが言うことはあなたがたも守りなさいと言っているから、その言葉自体に間違いはなさそうです。しかし彼らは、言うだけで実行しない。重荷を人の肩に載せるが、自分ではそれを動かずために指一本貸そうとしない。そのように批判されています。

 ファリサイ派や律法学者の人たちは、自分たちの共同体のために一生懸命働いていました。自分たちが神さまの元に清くあるために、必死でした。そのことは何も間違っていることではないでしょう。しかしそれが、自分たちの共同体が清くなれば良い、自分たちの周りの人たちさえ正しければよいと、ある種の道徳・倫理をもって語られたときに、それは間違った方向に行くのだということです。

 たとえば安息日にイエス様は、手が萎えた人をいやしたことがあります。ファリサイ派は怒りました。「そんなこと、安息日にするものではない」と。でもイエス様は言われます。「安息日を守ることは大切化もしれない。しかしそれよりも大事なのは命なのだ」と。さまざまな決まりを大切にするがあまり、本質的なものを見失ってしまった。神さまが一番大切にしたいことが何か、わからなくなってしまった。2000年前に批判されたことではありますが、しかし今、わたしたちの教会はどうなのか、わたしたちは考え続ける必要があるように思います。

 教会には様々なきまりがあります。目に見えるもの、目に見えないもの、また明確に決められていないものの、世間一般的に「教会とはこういうところ」というイメージもあります。教会にはこういう人しか行ってはいけない。教会ではこのように過ごさなければならない。そのような様々な「ならない」という決まりごとが、教会の敷居を高くするものとなっているのです。

 でも教会は、そもそもそうだったのか。イエス様はそのような見栄と虚栄に満ちた、一部の人だけが満足できる建物を作るように命じられたのか。そのことを今日の箇所は、わたしたちに突き付けているように思います。

 わたしたちの教会が、本当に神さまの御心に沿い、イエス様の思いがあらわされる場所となっているのか。わたしたちのおこないは、神さまを必要とし、神さまにすがろうとしている人たちに向けられているのか、そしてわたしたちは、すべての人を排除せず、壁を取り去って歩もうとしているのか。

 自分たちだけでは到底できることではありません。しかし神さまの助けにより、わたしたちが、そしてわたしたちの教会がそのように歩むものとなれますように、祈り求めていきましょう。