「みんなちがって、みんないいわけ」
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ヨハネによる福音書20章19~23節
私が両手をひろげても お空はちっとも飛べないが 飛べる小鳥は私のように 地面を速く走れない
私がからだをゆすっても きれいな音は出ないけど あの鳴る鈴は私のように たくさんな唄は知らないよ
鈴と 小鳥と それから私 みんなちがって みんないい
大正末期から昭和にかけて活躍した詩人、金子みすゞさんによる「私と小鳥と鈴と」です。多くの人に愛され、小学校の国語の教科書にも載っていますし、「みんなちがってみんないい」というフレーズは、あらゆる教育現場において「多様性を尊重する」という人権教育の中で使われています。この世に生まれて来た人間一人ひとりに神様から与えられた賜物があり、だれもがそのままで最高傑作なんだ、まわりの人と比べる必要はまったくない。みんなかけがえのない素晴らしい存在なんだよというのがこの詩から読み取れるメッセージです。彼女はクリスチャンではありませんでしたが、この詩は非常に聖書的です。ところが、「みんなちがってみんないい」というフレーズだけ一人歩きしてしまうことがあります。そうなると、「ちがってても別にいいんじゃない、私には関係ないし」という、突き放したような非常に冷たいメッセージに捉えられうるのです。そこに出来上がる世界は、個人主義であり、利己主義であり、無関心で思いやりの欠ける世界です。人間はひとりでは生きていけないはず、死んでもいけないはずです。そのことを分かっていながら、すべての人がバラバラで、互いを気に留めない。それで、みんなちがってみんないいというならば、そこは地獄でしょう。
そもそも、みんなちがうということは聖書の中にどのようにあらわされているのでしょうか。旧約聖書の創世記に、バベルの塔という物語があります。当時、世界中は同じ言葉を使い、同じように話していました。次第に文明が発達し、権力を持つ者たちが現れ、天まで届く塔を作ろうという思いに至ります。誰もが理解できる一つの言葉を使っていましたから、命令は上から下へ、世界の隅々まで滞りなく行き渡り、工事はどんどん進みました。人々はまるでロボットのようだったにちがいありません。その様子をごらんになった神さまは天から降りてきて、人々の言葉を混乱させ、互いに通じ合わないようにしてしまいました。さあ、大変です。誰も上の言うことを聞かなくなり、チームワークは取れなくなり、工事はストップ、皆、散り散りバラバラに去って行きました。これは、人間が神に近づこうとしたこと、そして強い者が圧倒的な力をもって神のように人々を支配しようとしたことに対するいわゆる天罰でした。言葉がバラバラにされたということは、人は皆、個であって特定の支配者に従うためのその他大勢の一人ではないということが示されているように思います。
そのようにして言葉がバラバラになり、世界中に散らされた私たち、その後どうなったのでしょうか。2023年の今日、すさまじいテクノロジーの進歩により、言葉は違えど、テレビ、パソコン、スマホといった文明の機器で世界中の多くの人たちと通じ合えるようになりました。地球の裏側へもひとっ飛びでます。言葉だけでなく、文化、習慣、宗教や思想の違いがあることを知り、それらを受け入れ、困ったら助け合うこともでき、いい意味で「みんなちがってみんないい」世界になってきました。神さまが言葉を分からなくして通じ合えないようにしてしまった世界を、今度は人間の力でもう一度通じ合う世界へと変えてきたのです。素晴らしいことではないでしょうか。神さまも、人間ヤルな、捨てたもんじゃないと思ってくださっているはずです。
しかし、その人間同士つながりたい、通じ合いたいという動機はどこにあるのかを考えるとき、少し不安になるのです。もちろん私たち人間は神さまの似姿に造られていますから、みんな生まれながらにして愛を持っています。その愛を誰かと分かち合いたい、そして、すべての人が幸せに生きる愛と平和に満ちた世界を造りたい。それが私たちの持つ本来の動機であり、私たちのこの世に生きる目的のはずなのです。ところが、その目的を達成するための手段がいつの間にか目的になり、本来の目的からそれてしまう、あるいは目的はそもそも何だったのか分からなくなってしまっている現実があります。私たちはすべての人が幸せに生きる愛と平和に満ちた世界を造るために、あらゆる科学技術を発展させているはず。できる限り長生きをし、快適な生活をし、エネルギーを作り出し、宇宙へ行き、難解で時間と労力のかかることはAIにやってもらう。これらは全部手段であるはずが、いつの間にか目的にすり替わってしまっているのです。本来の目的を忘れてしまった私たちはまた大昔のバベルの塔に逆戻りしていないでしょうか。せっかく一人ひとりがちがうのに、いつの間にかまたひと塊になって欲望という名のこの世の支配者に従わされてはいないでしょうか。
聖霊降臨日。それは、私たち一人ひとりが何のためにちがうのか、何のために生きるのかを思い出させてくれる日です。私たち一人ひとりが、人間が生きるための最高の世界を造るためではなく、神さまの支配する世界、神の国を完成させるために生かされているということ、そのためにそれぞれがちがう賜物を与えられているということを思い起こす日です。みんなちがうのは、それぞれが勝手にハッピーになるためではないのです。「みんなちがってみんないい」は間違いではありません。でも、みんなちがってそれでOKではなく、ちがうみんなが一つのゴールを目指して一つになるから意味があるのです。
先週の日曜日、復活節第7主日、昇天後主日の礼拝では、ヨハネによる福音書の「主イエスの祈り」が読まれました。イエスが十字架につけられる前に愛する弟子たちのために父なる神に祈った祈り、それは「彼らを守ってください。私たちのように彼らも一つとなるためです」という願いでした。その願いを聞き入れ、神さまは聖霊を送ってくださいました。その聖霊は、弁護者と呼ばれ、神の愛そのものであったイエス様をことごとく思い出させてくれる力です。そしてそれは、主イエスを救い主として受け入れる私たち一人ひとりに対し、「あなたに与えられた賜物を私のために使ってほしい。どうか私と一緒に神の国を完成させるのを手伝ってほしい。そのために私はあなたを全力で守る」という神さまの強い願い、深い愛情とともに与えられているのです。聖霊を感じてください。今、イエス様は私たち一人ひとりに息を吹きかけておられます。神さまの息である聖霊を受けて教会の門の外へ出ていきましょう。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦されなければ赦されないまま残る。」主は言われました。そんなおこがましいこと!と思われるかもしれません。でもそれは、裁判官になれということではありません。聖書において、罪というのは神さまから離れることです。聖霊を受けた私たちが、今辛く悲しい思いをしている人に寄り添い、神の愛を分かち合うとき、その人は神さまと出会う。反対にそれらの人々とかかわりを持たなければ、かれらはずっと暗闇のなかにいるままなのだ。私はそう受け止めています。
「みんなちがってみんないい」のです。ただ、ちがって良かったねで終わるのではなく、ちがわされている意味をいつも心に留めていたいと思います。私たち一人ひとりはかけがえのない存在です。神さまの目に値高く尊い、愛されている存在です。そのお恵みを聖霊降臨日の今日、体いっぱいに感じ、外へ出ていきたいと思います。